2009年09月06日

■天皇謝罪を求めたアイヌ先住権運動の暴走

こんな要求を支持できるか? 五兆円賠償請求、国会特別議席、アイヌ語教育必修
遂に明らかになった運動団体のドンデモ要望書
道北教科書改善連絡協議会会長 的場光昭

 昨年六月に衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」(以下「国会決議」)が採択されて以来、アイヌ団体やこれを取り巻き利用しようとする左翼団体の暴走が続いている。この国会決議は、インディアンやアボリジニなど世界各地の先住民族が奪われた土地などの返還・補償とエスノサイド(民族根絶)などにさらされない権利を謳った「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(以下「国連宣言」)を踏まえたものだ。しかしインディアンやアボリジニなどとアイヌとは境遇が全く異なるし、国連宣言を盾にアイヌ団体などが過大な要求をするのは筋違いであると、私たちは本誌で再三訴えてきた(本誌〇八年八月号西村論文、同十月号的場論文、同十二月号的場論文、〇九年一月号鎌田論文参照)。だが、事態は私たちの憂慮を超えて悪化している。

■荒唐無稽な要望

 六月二十五日、旭川アイヌ協議会の川村兼一会長と、アイヌ系日本人及び支援者らでつくるアイヌ・ラマット実行委員会(東京)の出原昌志共同代表らが内閣官房アイヌ政策推進室を訪れ、以下のような申し入れ書を手渡した。

一、日本政府及び天皇は、アイヌモシリ植民地支配と同化政策の歴史的な責任を認め謝罪を行うこと

二、日本政府は、先住民族アイヌの生得の権利、とりわけ土地、領域、資源を奪ってきた賠償として五兆円を支払うこと。また、アイヌ民族に対する強制移住、強制連行、虐殺などの人権侵害について調査の上、その歴史的な責任に対して賠償を行うこと

三、アイヌ民族に対して、アイヌモシリの公有地と天然資源を返還し、漁業権、狩猟権、伐採権などの権利回復を行うこと。いわゆる「北方領土」に関してアイヌ民族の自決権を認めた上、原状回復の困難な土地、天然資源の利用に関しては国の責任で代償措置をとること

四、国会と地方議会にアイヌ民族の特別議席を設けること

五、アイヌ民族が自主的に運営を決定し、幼児期から高等教育までアイヌ語を中心にアイヌ文化や歴史を学べる教育機関を設置してその財政的保障を行うこと。日本の公教育機関でも、アイヌ民族の言語を学べ、アイヌ民族の立場からその歴史と文化への正しい理解を醸成する系統的な教育カリキュラムを保障すること

六、全国のアイヌ民族の実態調査を行い、アイヌ民族の先住権、自決権に基づく施策を保障するアイヌ民族法を制定すること

七、アイヌ民族の墓地を荒らした遺骨収集の経緯を調査し、その返還を速やかに行うとともに、納骨堂を国の責任で建設すること(一部略)

  この申し入れ内容が如何に荒唐無稽であるかは、説明不要であろう。とうとうここまで来たかと、愕然とせざるを得ない。

 国会決議から一年余り、アイヌ系団体関係者らは国に対し、さまざまな要求を掲げてきた。昨年七月には先住民族サミットなるものが北海道で開かれ、国連宣言の実行▽アイヌ語の公用語化▽過去のアイヌ政策に対する謝罪?などを要求。北海道ウタリ協会(現北海道アイヌ協会)の加藤忠理事長は、「奪われた土地や資産の補償などの問題もある」と明言した上(昨年七月二十八日付北海道新聞)、「国会や地方議会への民族の特別議席枠」を求めた(同八月十日付)。また、首都圏のアイヌ系団体関係者でつくる「アイヌ・ウタリ連絡会」の長谷川修事務局長も、「まず政府や国会議員が謝罪することが重要だ」と指摘。アイヌの活動を支援してきた福岡県立大学の手島武雅講師(政治学)は、自決権・自治権も含め、国連宣言が掲げた権利の完全履行を検討するよう求めた(同九月十四日付)。高橋はるみ北海道知事にいたっては、国に先駆けて「アイヌ民族の日」を制定するなどという世迷言を議会で発する始末である(平成二十一年六月十九日道議会)。

 そして、今回の申し入れである。捏造された歴史に基づく要求はついに「天皇の謝罪」という不遜の極みに達した。北海道の当初予算(今年度二兆八千七百億円)をはるかに上回る巨額賠償を求めた上、さらに巨額賠償を強要する構えである。

 これは高橋知事をはじめ、本来アイヌ政策に通じているはずの本道出身議員の不見識が招いた結果である。とくに、アイヌを利用した左翼運動に乗せられた新党大地の鈴木宗男議員と「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」会長の今津寛議員の罪は重い。鈴木議員は以前、「政府も我々アイヌ議連も、アイヌの人々に対して土地の返還や金銭的な補償を行うことは一切目指していないし、北海道ウタリ協会もそれは重々承知している」(月刊日本昨年十月号)と主張していたが、この有様である。止まるところを知らない要望の責任を、どう感じているのか。

 

■民族としては滅亡?

 言うまでもないことだが、アイヌ系団体関係者やこれを取り巻く左翼運動家に賠償などを要求する資格はない。そもそもアイヌ民族を名乗ること自体が疑わしい。

 昨年私が北海道ウタリ協会(現北海道アイヌ協会)に問い合わせたところ、アイヌ民族の定義は、「アイヌの血を引くと確認された者、およびその家族・配偶者・子孫がアイヌである。また養子縁組などでアイヌの家族になった者も含まれるが、これは本人一代限りにおいてアイヌと認め同協会への入会が認められる。」という珍妙なものであった。

 アイヌ文化研究の第一人者であるアイヌ出身の大学者故知里真志保北海道大学教授が担当した平凡社の『世界大百科事典』(昭和三十年)の「アイヌ」の項目には、アイヌ民族は滅んだと明記されている。

《明治以来の同化政策の効果もあって、急速に同化の一路をたどり、今やその固有の文化を失って、物心ともに一般の日本人と少しも変るところがない生活を営むまでにいたっている。したがって、民族としてのアイヌはすでに滅びたといってよく、厳密にいうならば、彼らはもはやアイヌではなく、せいぜいアイヌ系日本人とでも称すべきものである。》

 また知里教授は昭和三十年一月三十一日の「北海道大学新聞」に『なぜアイヌのみ異民族扱い』という論文を寄せている。

《多くの人々は民族文化の保存といいますが、現実にはアイヌ文化は明治以前に滅びてしまつて、その後はいわゆるアイヌ系日本人によつてその文化が多少とも保たれて来たわけです。》

 大変興味深いことだが、沖縄出身の民俗学者故比嘉春潮も『新稿沖繩の歴史』(三一書房刊)の自序で、「フォルク(筆者注=Volk=人種・言語・習慣によって文化的に統一された集団)としての沖繩民族は嘗て存在したが、今日沖繩人は、ナチオン(Nation=国民・国家・統一された政治的単一体)としての日本民族の一部であり、これとは別に沖繩民族というものがあるわけではない」と同様の見解を示している。

 つまり知里教授の説を比嘉流に言い換えるなら、嘗てフォルクとしてのアイヌ民族は存在したが、明治以後アイヌはナチオンとしての日本民族の一部になったのであり、昭和三十年の時点でアイヌ民族というものがあるわけではない--ということになる。これが知里教授の当時の実感であり、鈴木宗男氏が自民党代議士時代の平成十三年に日本外国特派員協会で講演して「(日本は)一国家、一言語、一民族と言っていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、今はまったく同化されていますから」と発言していたことの真意なのである。

■アイヌ保護の史実

 百歩譲って「アイヌ民族」であることを認めるにしても、彼らが「天皇の謝罪」を求め、「五兆円の賠償」を請求するなど論外である。彼らの要求がいかに史実を無視し、不当なものであるかを明らかにするために、簡単にわが国のアイヌ保護政策を振り返ってみよう。

 寛政三(一七九一)年、幕府はアイヌ交易の改善のため厚岸・霧多布・国後・宗谷・石狩で救済交易を始め、寛政十一(一七九九)年には東蝦夷地を仮上知としてアイヌと直接交易を開始した。さらに文化四(一八〇七)年には蝦夷地全域を直轄とし、場所請負人の横暴を断ち過酷なアイヌ使役を緩和した。その後松前藩による復領時代、再度の幕府直轄時代、そして明治二(一八六九)年の開拓使による場所請負廃止まで、幕府は一貫してアイヌ同化保護政策を行なっている。

 ちなみにアイヌに加えられた過酷な使役は、金に目がくらんだ場所請負人ら商人によるものであり、マルクス研究者の花崎皋平氏でさえ、松前藩時代に藩はアイヌに対して「親に孝行せよとか軽物(鷲の尾、毛皮、熊の胆など藩の専売品)を精を出してとるように」との申し渡しをしたが、場所請負人(運上屋)が自らの利益にならないためにこれを禁じて行なわせなかったと記している(『静かな大地』)。

 幕府直轄領になって幕府が請負人とアイヌ双方に出した申し渡しを以下に要約する。

 一、【労働政策】 場所詰めの役人がアイヌの労働報酬に干渉して適正な交易と賃金の支払いを行なわせ、過酷な使役のないよう監督に当たらせた。

 二、【人口維持政策】 若い男女の結婚を奨励し、そのために酋長が多くの妾をもつことを制限した。幼児の保護を行ない、医療施設を設置し種痘を実施した。請負人に対して扶養義務者の出稼ぎを免じ、老幼不具者の困窮を救い、雨具や草鞋を用いさせ、家屋の改善をはかって不衛生な生活を改めさせた。

 三、【同化政策】 請負人によって禁じられていた日本語の使用を許可し望む者には文字を習わせた。入れ墨や耳環を禁じ、髭を剃り髪を結うなどの教導教化を行なった。

 また、特にアイヌ習俗を改めることについては、「古来からの風習を改めるのであるから、にわかに信服するはずもなく、まず衣食住の生活に便利なることを明らかにし、内地から移住した農民共の生活を標準に、追々馴染ませるように仕向け、御趣意柄を会得したアイヌから漸次に改俗させるよう取計らうこと」とし、強制しない方針であった。

 明治以降の同化政策も基本的にはこれを踏襲したもので、明治四年、開拓使は三つの禁止と一つの推奨を各地のアイヌに布達した。

 一、男は耳環をしてはいけない。

 二、女は入れ墨を禁止する。

 三、死者が出たときに家を焼き払うことを禁止する。

 四、文字をもたない彼らに文字を覚えるようにこころがける。

 以上は和人にはないアイヌの伝統的な文化だが、現在の価値観から見ても、不条理な布達とは思えない。しかもそれほど徹底されたものではなかったようである。

 男の耳環については最近の若者のファッションとして復活しているようであるが、耳に穴をあけることによって化膿したり、肝炎ウイルスに感染する危険があり私たち医師からすると好ましいものではない。入れ墨はなおさらで、現在でも入れ墨をしている人に血液を介して感染するB型肝炎やC型肝炎が多いのは医師の間では常識だ。

 また、アイヌには死者が出たときに家を焼き払って移動する習慣があり、伝染病予防などからはそれなりに意味のあることだったが、近代化の過程、特に農耕や安定した生活のための富の蓄積にはどうしても定住ということが必要であった。

 一方で明治政府はアイヌ子弟に文字を教えるために学校を設立し、学校へ行かせたがらない父兄に金銭を与え、アイヌ児童には給食を出し、さらには彼らの生活習慣に合わせて始業時間を遅らせたり、入浴習慣がなく伝染病(疥癬、トラホーム、マラリアなど)が蔓延していた彼らを学校で入浴させ、身体を清潔に保つことを教えたりと大変な予算と労力を傾注したのである。
■自身も裕福な生活

 このようにアイヌ民族を文明生活へと導いた同化政策の恩恵を、「天皇の謝罪」を求めた旭川アイヌ協議会の川村兼一会長自身の父祖も十分に受けていた。川村会長の父・カ子(ね)ト氏は、草葉の陰で息子の暴挙をさぞかし残念がっていることであろう。

 カ子ト氏のいとこである砂沢クラさんの『クスクップ オルシペ 私の一代の話』(北海道新聞社)によれば、二人の祖母テルシフチについて「私の祖母のテルシフチは看守の子供だったそうです。父親は、ただの看守ではなく、位の高い立派な人だったとかで、アイヌの家に来て、エカシたちと一緒にアイヌ語でカムイノミ(神への祈り)もしたそうです。フチが和人の子供だったからでしょう。フチの子供は、みな、あまり毛も濃くなく、ピリカオッカヨ(美男)、ピリカメノコ(美女)ばかりでした」とある。

 自ら和人の血を引くカ子ト氏は伯父クウカルク(クラさんの父)のあとを継いで、鉄道の測量技師になり長野県、樺太、朝鮮での鉄道建設に尽力し、大正五年、アイヌ文化の保存と伝承を目的に父イタキシロマとともに現在の川村カ子トアイヌ記念館を創設した。そして自らも和人のトメさん(川村会長の母)と結婚し、アイヌと和人の融和に努めアイヌ系日本人はもとより多くの地域住民から尊敬されていた人物である。

 また、カ子ト氏はクラさんの記述によると北海道旧土人保護法によってアイヌに与えられた共有地の管理(和人の小作人や賃借人からの集金と部落民への分配など)にあたり、当時としては大変裕福な暮らしをしていたようでもある。クラさんは昭和三十年頃の話として、「川村の兄は、いつも、みなに渡す金以外に一万とか二万とかの金を私のふところに入れてくれるのです。ほんとうにいい兄でした」と書いている。当時大卒初任給が一万二千円程度、今でいえば四十万円近くもの金をいつも渡してくれたというのだから、カ子ト氏は戦後も相当の金持ちであったのだ。冒頭の国会決議には「我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされた」という文言が含まれているが、どうやら川村一族は「等しくアイヌでありながらも」富裕な一族であったようである。

 それどころか、カ子ト氏は進駐軍が命じた農地解放の対象となった近文部落の共有地について満足な解決が得られたとして、昭和二十四年三月に札幌駐在米軍第七師団長ウィリアム・ディーン少将を招いて農地解放祝賀熊祭りまで行なっている。戦前、そして戦後もつづいた「貧窮を余儀なくされた」というアイヌの人々の問題は、和人対アイヌの問題ばかりではなく、アイヌ部落内での富の偏在こそが大きな原因であったのだ。事実クラさんは父親に死なれ、若い頃から多くの貧しい和人たちと出面仕事をしたり、結婚してからも酒びたりで暴力を振るう夫に苦労して「貧窮を余儀なくされ」ているが、これはアイヌに限ったことではない。川村会長は「五兆円の賠償」を求めるが、一円とて必要のないことがお分かりいただけたかと思う。

 ついでながら、差別についてもクラさんは品性の卑しい和人は別として、まともな職業の和人から差別をうけたことはなかったと述べている。

 川村会長をはじめアイヌ系日本人団体の構成員は、わが国のアイヌ保護史とその中で生き抜き、和人とともに北海道の開拓と防衛に尽くし、融和・同化に努めた父祖の歴史をしっかりと学んで欲しい。むろん、高橋はるみ知事、今津寛議員、鈴木宗男議員も。

■アイヌ語講座の弊害

 余談だが、昨年本誌に掲載された私の論文を読んだ研究者が来旭し、国会決議以降ブームとなった各地のアイヌ語講座やアイヌ文化紹介なるものは出鱈目であり、先人が苦労して蒐集し体系化したアイヌ語学や伝統的なアイヌ文化の保存を危うくしていると嘆いていた。

「アイヌ語を中心にアイヌ文化や歴史を学べる教育機関を設置」などと簡単にいうが、蒐集されて残存しているアイヌ語だけで九種類にもなる(八雲・幌別・沙流・旭川・帯広・美幌・名寄・宗谷・樺太の各方言。なお、千島方言は正確なものとしては一語も蒐集されていない)。しかも服部四郎編『アイヌ語方言辞典』によると、昭和三十年ごろの時点で自由自在にアイヌ語を話せたのは樺太方言の話し手であるフジヤマハルさんただ一人であったという。

 前出の知里真志保教授は「未開人の言葉の中には未開人の魂が棲んでいる(中略)この言霊の虐殺を最も大胆に、最も多量に、最も残酷にやってのけている」とバチェラーのアイヌ語研究を批判し、「俺が死んだら、大手をふってアイヌのことを書くやつがいるだろうな」と嘆息したというが、アイヌを利用し国家の歴史を貶めようとする左翼イデオロギーによって、知里教授の懸念がこれほど深刻さを増したことは嘗てなかったのではないか。

「憶えば半世紀前に於いて純真無垢なる我等高砂青年族民は、日本天皇の一視同仁と皇民化教育の恩恵に浴し…」とは高砂義勇隊英魂碑の建立(平成四年十一月)における高砂族代表周麗梅(愛子)氏の言葉である。平成十五年の台湾SARS禍の際、私たちはマスク十一万枚と防護服千五百着を送ったが、氏はそのお礼にとご高齢にもかかわらず、亡くなる直前に遠路はるばる旭川を訪問された非常に義理堅い、まさに皇民教育の華のような方である。

 氏はこう語った。日本統治以前の台湾は言葉や習俗の異なる多くの小部族に分かれて互いの意思疎通もままならなかった。日本が多大の犠牲をはらって皇民教育を行なってくれたおかげで自分たちも疫病の蔓延から解放され、文明生活の恩恵に浴することができ、また高砂族の文化も継承することが可能になった??と。本当にアイヌ文化を守ろうとするならば、自らの不作為を糊塗するために過去の日本を断罪するようなことはやめよ。そして周氏のような人物が、八雲、幌別、沙流、旭川、帯広、美幌、名寄、宗谷在住のアイヌ系日本人に出なければならぬと思う。
■融和・同化の国日本

 先に紹介した知里教授は北海道大学新聞記事の中で、「今では民族と人種の差は常識でしよう。私たちいわゆるアイヌといわれている者もやはり全部日本人なのです。日本語を使い、日本人の生活をし、似教を奉じているのです。ですからいわゆるアイヌ系日本人なのです。所が、なぜアイヌのみが日本人の中で異民族扱いを受けるのでしよう」と記している。北海道アイヌ協会の中には「知里真志保を語り継ぐ会」もあると聞くが、是非こうした知里教授の見解も語り継いで欲しい。

 民族問題は現在も世界各地で大きな問題となっているが、それは彼等が人種や言語・宗教・生活習慣といった民族の壁をなかなか乗り越えることができず、惨憺たる戦い、そして支配・被支配の歴史と、せいぜい界を接しての対立の歴史を積み重ねてきた結果である。

 これに対して日本では出雲神話にみられるように融和、同化の歴史だ。熊襲(くまそ)・安曇(あずみ)・粛慎(みしはせ)などさまざまな民族(部族)が融和・同化して最後に同化されたのが蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌであったのだ。江戸幕府が松前藩を直轄したときに、アイヌに和人風の暮らしを強制しないで、和人風の暮らしがアイヌの習慣や暮らしよりも便利であることを自然に分からせるようにせよ、と命じたのもその現われである。また松前藩の場所請け制度では、請負人たちによってアイヌは日本語を話すことも日本風の服装をすることも禁じられていたが、これを幕府が撤廃するとアイヌの中で優秀なものはすぐに文字を覚え、すみやかに同化が進んだ。

 また大和神話とアイヌ神話には数々の共通点を見出すことができる。たとえばオキクルミと天照大御神や、アイヌラックル説話と天鈿女命の類似点など代表的なもので、大和神話とアイヌ神話の根幹にこのような類似点を見出すことができるのは融和・同化どころか、あるいは元々共通の祖先であったことを物語るものとすら思われる。

 さらに明治以降の北海道開拓においてもこの融和・同化の精神は生かされ、アイヌ語由来の地名や町名が多く残り、それをそのまま愛別神社や比布神社などとして、地域の氏神と共に天照大御神を祀る神社に冠している。

 左翼イデオロギーは従軍慰安婦や朝鮮人強制連行など様々な歴史の捏造に加担し、わが国の歴史を貶めることに余念がない。政治家やアイヌ系日本人が、世界唯一の融和・同化のアイヌ保護政策の歴史を、国連宣言にいう先住民族の迫害の歴史に作り変えようとする左翼イデオロギー闘争の片棒を担がされていることに、一日も早く気付くことを切に願うものである。


 【略歴】的場光昭氏
 昭和29(1954)年、北海道生まれ。旭川医科大学卒。医師。旭川医科大学麻酔・蘇生学講座勤務を経て旭川ペインクリニック病院理事長に就任。その傍ら、地元誌『北海道経済』の巻末エッセー「天定破人」を執筆。西部邁事務所発行の『北の発言』の執筆協力者でもある。

posted by Depot at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | D/B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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