2008年11月23日

昭和正論座 自由な日本は良い国

■加藤登紀子の国家嫌悪思想

 過日、加藤登紀子さんが、「週刊朝日」に執筆していらっしゃったエッセイに、次のようなのがあった。
  「(前略)私が生まれてたかだか三十年だが、私自身の肉体も、私自身の観念も、私の日常生活も、数千年の歴史によって規定されているのだ、と恐ろしいほどによくわかる。だから、日本というものを徹底的に知りたいという思いは、私の中に激しくつのってくるのだ。しかし、にもかかわらず、日本という言葉を発するときに、たえず嫌悪の匂いが私の中に生まれ、その言葉から逃れたい衝動にかられる。それは今や国家権力としての日本への抵抗感であることを越えて、現実世界のあらゆるところに顔を出してきているいやらしさである。学生生活を共にした友だちが、しばらくぶりに会ってみると、のっぺりと太ったサラリーマンになっていて、ゴルフと麻雀の話しかしなくなっていたりする。そのことの中に日本が見える。

 勝手ながら、私は私の流儀で生きさせてもらいますという具合にさばさばと大らかにやりたいものだと、つくづく思うのだ。アメリカ合衆国の中に黒人たちの新アフリカ共和国が存在しているように、きっぱりと自立を宣言して、生きていけたら素敵じゃないか。毎曰くり返される日常を、ことごとく自分の流儀にかえてくことによってでもいい。もちろん、ことごとくというのは容易なことではない。ただ、できる限り、今の消費体制と無関係になる努力は必要みたいだ。たとえば、テレビのコマーシャルを絶対見ないというふうな頑固な浮世はなれをしてみるとか…。
 (後略)」

 このきちんとした文章は、現在、日本の中にある、国家嫌悪思想を立派に代表しているように思う。


■さっさと他国人になっては

 敗戦以来、日本人は「日本はダメな国だ」という言い方を好むようになった。この反動の理由は、それなりに、国 民性とか、日本語の表現と か、たえず西欧を意識してその光に照らして自国を見よう とする民族的姿勢とかに関係 があるのだろうと思うが、今ここではそれに触れるつもりはない。私は自由な考えが好きで、個人がそれぞれの思いを持って暮らすことに大賛成だから、日本に嫌悪を感じずにいられないという人がいても、それはそれでいいと思う。ただ、これは老婆心から言うのだが、あまりいやだったら、何も日本人でいることはない。目下のところでは、世界でいくつかは、永住を許したり、比較的楽に、国籍を与えてくれる国があるようであるから、青年たちの中で、日本を憎む人たちは、さっさと他国人になることをおすすめする。
 
 私はヨーロッパもアメリカもよく知らず、アフリカに至っては行ったことさえないので、雲を掴むようである。私が他の方たちより少しはよく知っているのではないかと思うのはアジアの諸国だけだが、アジアの中では、目下のところ、日本ほどの繁栄と自由に恵まれている国はない。繁栄は困る、とおっしゃる方もあるようだが、国が疲弊すれば、今よりもっと多くの国民が国を嫌悪するであろう。

■アジア諸国と比べてみれば

 言論・表現の問題に至っては、これはもう、日本人は比較にならないほどの自由を得ている。ついでに言えば、日本の官僚組織はこれまた決して腐敗しているとはいえない。よき種子の中に、常に悪い種が混じることはある。しかし、役所という場所では、ルールが通るものだなどと考えていたら、他の一部のアジアの諸国ではとんだ甘いことになる。

 私たちはすでに得ているものに対しては、鈍感であり、評価し感謝することを忘れがちである。日本の警察官にも又、私は東南アジア諸国でであった警官だちと比べて、深い尊敬を抱いている。たとえば日本では、かなりの高パーセンテージで殺人や窃盗の犯人が検挙される。しかし、それがどこの国でも普通に行われ得ることだと恩ったら、大まちがいである。「届けても出るわけはないから」と考えねばならぬケースの方がはるかに一般的なのである。

 先日、シンガポールで、私は或る華僑通の日本人から、おもしろい見力を教えて頂いた。非常に多くの華僑が、しげしげと中国に行き、中国と商売をするが、それはもうけになるからというより、彼らのチャイニーズとしての精神の根が中国本土にあるから致し方ないのだという。しかし彼らの殆どは、決して中国に留ってそこで生活しようとは思わない。シンガポールは、それなりに問題はあるが、やはり生活は豊か、思想的な自由も持ちうるからだ。


■世界視野に判断する冷静さ

「そういう華僑たちを見ると、日本人はすぐ、現毛沢東政権の支持者だと言うんですね。しかし、そんなことはないんです。中国人にとって、国家とか、政府とか言うものは歴史始って以来、ずっとひどいものなんです。常に国家は租税をとり立て、子供をかっさらって行って戦いで殺した。国家が自分の生活を守ってくれるとか、国家は繁栄のために配慮すべきだとか、こうなったのは国家が怠慢だからだ、とかいう意識や発想は、きわめて日本的なものなんですな。ですから、今の中国がどんなであっても、それはそれでいいんです。今は、いわば、毛時代(マオ・ダイナスティ)に過ぎないんですよ。唐代、宋代、元代、明、という感じの毛代なんですよ。昔より、よくなっていればけっこうだし、昔のままだとしても、別に特に失望することはないわけですからね。どんなダイナスティであろうと、祖国は祖国ですからね。これは魂のよどころとして必要なんです。ですから、華僑の多くは、中国指向ですよ。しかしそれは、日本人の考えるものとは少し違うように思えますけどね」 

 憎みつつ愛する、ということもあるし、愛しつつ、破滅を願っているという場合もある。人間の心理が、表向きほど単純でないということは心理学の示す通りである。 嫌うのも惚れるのも勝手だが、その前に、自国を、世界の中に置いて、冷静なデータのもとに判断することは必要であろう。そうすると、又、意外な日本発見が可能かも知れない。幸いにも、(将来は知らないが)目下の日本には、それをする自由が与えられていることを私は深く感謝している。

(作家 曽野綾子 昭和49年4月19日掲載)


【視点】
昭和40年代の若い世代の中に、時折、国家否定のセンチメンタリズムに出合うことがあった。貧困を説し、豊かさを享受しながら、自らを高みにおいて日本と日本人の醜悪さを批判する。そうすることが、あたかも世界市民なる幻想社会の住人の義務であるかのように。曽野氏はそうしたエセ知識人の独りよがりを見事に暴いてみせた。広く世界には独裁国家もあれば、破綻(はたん)国家もある。そうした国家の指導者らは腐敗し、役人にはワイロが横行し、国民からは富を収奪していく。少なくとも日本は、国家を批判する自由も否定する自由も与えられ、曽野氏はそうした自由があることに感謝するというのだ。      (湯)

posted by Depot at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | D/B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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