2008年12月02日

昭和正論座 はびこる盗人の「三分の理」

                    文芸評論家村松剛 昭和49年10月28日掲載 

■万引にも罪の意識なく
 
 盗人にも三分の理、ということわざがある。どんな犯罪人にも多少のいいぷんはあり、同情の余地はあり得る、というほどの意味だろう。しかし近ごろはどうやら、その「三分の理」の方が肥大して大手をふっている時代である。犯罪をおかしても、責任は外にあり、社会にあり、社会の「矛盾」とかの力にあって、当人にはない・・・。 
 
 
 先日ある公立中学校の先生から、その中学校の生徒の八割くらいが万引の経験者であるときかされた。東京の、一応「名門」とされている学校である(子供だから盗むのは
主として本とかレコードとか、そんなものらしい)。苦学して教科書さえ買えずに友だちの本を筆写したというようなはなしは、むかしはよくあったし、その結果ついわるいと知りながら手を出したというのでもあれば、まだ可愛気がある。いまの子供たちは、殆どが面白半分である。 

  
しかも彼らには罪の意識がまったくなく、先生がひそかに呼んで叱りつけると、「大企業がわるいことをしてもうけているのに、少少のものをとって何がわるい」というのが多いという。本屋の大企業というのはきいたことがないけれど、そのあたりが子供ということだろうか。  

責任はすべて「社会」に
 ゲバ学生が暴れていたころ、そのひとりにきみたちは自分のしていることがいいと思っているのか、ときいたことがある。「いいとは思わないが・・・」という返事だった。 「しかしこういうおれたちをつくったのは社会なのだから、要するに社会がわるい」

 
 責任はすべて社会にあって、自分にはない。個人の自由などと□では叫んでいても、つまりは責任をとる個人を、みずから消し去っているのである。狐つきのようなゲバ学生のいうことだからと、このときは笑ってすませたが、中学生の力のはなしには、戦慄した。同じ「三分の理」的思考方法が、形を変えて子供にまで流行していることになる。  
 何か犯罪事件が起こると、被告のだれそれを守る会とかいうものができ上るのが、このごろの流行である。

 無実の罪の被告を守るというのなら、むろん結構である。うたがう余地のない犯罪人までが、過去にうけた「差別」や「偏見」を理由に英雄化される。

 
 人種や出身による差別がわるいことは、わかりきっている。しかし、差別されてきたから犯罪を起こしても当りまえというのなら、二千年間差別されて来たユダヤ人や、そのユダヤ人からも蔑視されてきたサマリア人は、人殺しも自由であろう。不当な扱いにもかかわらず、立派に生きた人びとは大勢いるのであって、そういう人たちこそが美しい。  
 だがそんなことをいえば、社会の矛盾を個人の美徳にすりかえる論だという非難が、どうせどこかからとんでくるにきまっている。何しろ生徒に競走をさせることは階級間の矛盾を個人間の問題にすりかえることだといって、子供の駆けっこをやめさせていた日教組の先生たちさえいるのである。
  
「盗泉の水を呑む」のか

 すべてが社会のせいであり、社会の矛盾のせいであるのなら、個人の責任は解消される。そこに道徳ないしは道徳感覚の、発生する余地はない。渇しても盗泉の水を呑まず、などというのはもう古くて、渇しさせる社会の方がわるいのだから、いくらでも呑んでさしつかえない順序になる。


 
東大構内の本屋が万引に悩まされて、ついにガードマンを雇って摘発に乗り出したら、四十一人がつまり、その八割が東大生だったそうである。むかしはなかった性質の事件として、どの新聞も大きな記事として扱っていた。彼らには罪の意識が、やはりまったくないという。

 
 彼らのあとには、すでに述べた中学生の世代がつづいている。青少年の全般をこれをもってはかる気はないが、とにかくこういう青年たちまもなく役人になり、会社員や政治家になってゆくのである。  はなしはちがうが近ごろ「むつ」号の一件ぐらい、見ていて馬鹿馬鹿しく、かつ腹立たしい事件はなかった。

 原子力の時代はすでにきているのであり、およそ新しいエネルギーの開発に遅れた民族がどんな運命を辿るかは、歴史が証明している。日本には、石油資源もない。だからこそ莫大な税金を費消して原子力船をつくったのを、大騒ぎして反対し、ほんのちょっと放射線がもれると原子爆弾でも落ちたような騒ぎである。「ニューズウイーク」誌が、不可解と評しているのにあたりまえだろう。
 
 
政治腐敗にも道徳の欠如
 そのうえ、魚には何の被害もなかったのに、十五億円もの「補償金」を支払いこれを手に入れた方力の代表を英雄扱いしている新聞まであった。よその国から見れば漫画でも、日本ではゴネどくが英雄にされる。

 
 田中金権政治の実態をーーというよりは、たぶんその一端をーー「文芸春秋」誌が明るみに出し、外国の新聞、雑誌にも大きく紹介されて、ようやく田中角栄氏をめぐる「黒い霧」が、ひろい論議の的になりはじめた。ようやくというのは、いままでにもいろいろと取沙汰されながら、なぜ今日まで問題にされなかったか、不可解だからである。田中氏と特別な関係にある女が田中派の金庫番をしていることくらい、周囲の人びとには常識だったはずだろう。

 
 「文芸春秋」誌の記事が事実なら、これほどに汚れきった首相は政治史上かつてない。しかし田中氏に近い政治家は、こういうことが問題になるのなら、徒手空拳、崖に爪を立てるようにして這上った男は首相になれないではないかといったと、ある新聞に出ていた。これには、呆れかえった。生立ちの環境がわるければ、トンネル会社をいくつつくってもうけようと、国民に節約を説きながら軽井沢に三つも別荘をつくろうと、それでいいのか。

 
 責任は環境にあり社会にあり、渇したら盗泉の水を呑めと、政治家もまたいっているのである。道徳感覚の欠如した青少年の発生は、やはり 「社会のせい」ということになるのかも知れない。(むらまつ たけし)
 
【視点】
村松剛氏は昭和44年の立教大学紛争で教授会のだらしなさに腹を立て、同大教授を辞した″硬骨の人々として知られるが、大学生ら当時の若者にも非常に厳しかった。 ここでは、本を万引して「大企業が悪いことをしてもうけているのに、少々のものをとって何が悪い」と居直る中学生や、こういうおれたちをつくった社会が悪い」と責任転嫁するゲバ学生の例を紹介し、すべて社会の矛盾のせいにする当時の青少年の罪の意識の欠如を批判した。そして、「渇しても盗泉の水を呑まず」といった古い道徳の復活を暗に求めた。  若者の凶悪犯罪を格差社会などのせいにする今の評論家らに読ませたい正論だ。(石) 
posted by Depot at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | D/B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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