2008年12月20日

【老いの一喝】何をいまさら川島芳子

ノンフィクション作家・上坂冬子
 川島芳子がテレビ番組になった(6日)。川島芳子とは中国・清王朝が終わりをとげたとき、最後の親王がそれまで親交のあった長野県出身の大陸浪人といわれた川島浪速に、「玩具として」与えたといわれている娘である。


 時として男装をして男言葉を使い、時として振り袖姿となって宴会の華となり、関東軍の将軍の間を縫って華やかな行動で話題を呼んだ風変わりな彼女は、昭和初期に日本のマスコミの格好の話題となったが、戦後に日本軍に協力した漢奸(かんかん)(中国に対する裏切り者)として北京で銃殺された。


 二十数年ほど前、私もそれなりに関心をもち彼女の歴史的役割を調べるべく『男装の麗人・川島芳子伝』(文春文庫)をまとめたが、言動に一貫性がなく単なる目立ちたがり屋にすぎなかったというのが私なりの結論である。世に言う日中間のスパイだとか、清王朝の再興を目指したとか、関東軍の中枢に入り込んでいたことなども伝聞が多く、確かな裏付けはない。清王朝を再興するには資金が必要である。だが当時、資産のすべてを後に日本船舶振興会会長となった笹川良一氏が一族に分配し、芳子にも5000円があてがわれた。おそらく清王朝の再興などこの時点で打ち切られていたのではないか。


 私が前述の書を出版するや、中国の師範大学の教授から翻訳許可の依頼があった。もちろん断ったが、まもなく『男装女諜・川島芳子伝』とタイトルをつけた訳本の一冊が送られてきて辟易(へきえき)した。彼女はスパイなどできる力量のある人物とは思えないと述べた私の本が、女スパイと題して中国で出版されたのである。ただし当時の中国は国際翻訳協定に加盟していなかったので打つ手はない。さらにこの訳本をもとに中国で映画化され、中国人でありながら日本軍の手先となった女として彼女のイメージが喧伝(けんでん)されている。


 日本のテレビ番組も、芳子が日本の傀儡(かいらい)満州国の建国に協力し、清王朝の再興のために献身しつつも日本の敗戦によって漢奸として処刑されたことになっていた。番組として、何を主張したかったのか私としては理解に苦しむ。番組では川島浪速が清王朝の再興のために子供をつくりたいと芳子を暴力的に犯す場面があり、彼女はそれを機に断髪したように描かれていたが、そんな事実はない。何よりも義父の浪速と芳子の年齢差は42歳である。


 実は芳子の実兄は戦後に日本に亡命して東京の郊外に住んでいた。私は元毎日新聞社社長・田中香苗氏の紹介で彼に会い、編集者とともに丸3日間話を聞いたが、芳子は婦人科の手術をして子供の産めない体になっていたという。


 山口淑子(李香蘭)さんは日本国籍だったために漢奸の疑いが晴れて生還できたが、川島芳子も義父の浪速に日本籍を取得した姪(めい)の戸籍の名前を芳子に変えて送ってほしいと懇請している。彼女の自筆のその手紙はいまも残っているが、この事実を記したのは私の著書だけだから番組では無断引用したのだろう。

 
 最近は映像の分野で古い事件や人物を再現する傾向があるが、制作者が若いせいか意図や事実確認が実に曖昧(あいまい)である。たとえ娯楽番組であろうと、これが許されていいはずがない。

産経新聞2008.12.20

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2008年12月17日

【正論】 増殖する韓国の「自尊史観」

                                                          筑波大学大学院教授・古田博司
 ≪「チャングム」のまやかし≫

 近頃、会合で話をすると10人に1人位は韓国時代劇チャングムのファンがいて、物語をそのまま史実だと思いこんでいることが多いので、正しておきたい。まず朝鮮の李朝では、女子が宮中に出仕すると王様と疑似婚姻関係に入るので一生外に出られない。チャングム女史のように出たり入ったりはできない。
 ドラマでは李朝時代は色彩にあふれているが、ほんとうは顔料がないので民間に色はない。中国の清朝でも日本の江戸時代でも陶磁器に赤絵があるが、朝鮮には白磁しかないのはそのためで、民衆の衣服が白なのも顔料が自給できないからである。民芸研究家による「朝鮮の白は悲哀の色」というのも、今では真っ赤なウソである。上流階級だけは中国で交易する御用商人から色のある布を買っていた。
 李朝は清朝や江戸時代と異なり、技術革新を嫌い、低レベルの実物経済で500年もの統治を可能にしたのであり、どこに似ているかといえば、いまの北朝鮮に似ている。19世紀初めの朝鮮の儒者が、「(我が国の拙(つたな)きところ)針なし、羊なし、車なし」(鄭東●『晝永編』)といっている。
 針は粗雑なものがあったが、ちゃんと縫うには中国から針を買わねばならなかった。当時の中国針は優秀で、日本も輸入している。羊はモンゴルに征服された高麗にはいたが、いつの間にか滅びた。車は西洋文化が流入するまではない。木を曲げる技術がなかったからである。だから李朝には樽(たる)もない。液体を遠方に運ぶことすらできなかった。かつて日本が保護したとき、韓国はそのような国であった。
 ≪歴史教科書にも国内批判≫
 韓国の歴史教科書について、最近では韓国の学者の間でも批判が出始めている。日本がやってきて、せっかく李朝期にあった韓国近代化の芽を摘み、植民地期にひたすら収奪したという論はもはや無理の限界に来ている。批判には、「このような収奪論には実証的な根拠が確実ではないという問題点がある。コメは日本に収奪されたのではなく、経済論理に従って日本に輸出されたのであり、それにともなって日本人を含む韓半島(韓国人は朝鮮半島をこう呼ぶ)全体の所得が増加した」(教科書フォーラム編『代案教科書 韓国近・現代史』2008年3月)と書かれてある。
 振り返れば韓国の歴史教科書もはじめからナショナリズム一辺倒であったわけではない。初期には、日清戦争で「日本の勝利となり、下関条約が結ばれ朝鮮の独立が認められた」(★佐鎬『中等世界史』英志文化社、1959年)とか、朝鮮は清の「半属国」だった(金聲近『高等世界史』高等学校2・3学年用、教友社、1962年)とか、平然と言っていた。
 日本が強制的に保護条約を押しつけたと居直るのは、70年代の中頃からのことで、朴正煕政権の後半、力量を持った民族ではなかったことが被植民地支配の原因だったと、ひそかに反省し始めたときであった。
 ≪利権あさる一部マスコミ≫
 ところが、82年6月26日に日本のマスコミが、教科書検定で日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えられたという誤報を行った。日本ではちょうど検定制度をめぐって政府と日教組が大揉(も)めだったときだ。
 中国・韓国からのはげしい抗議が始まり、結果として近隣諸国条項(1982年11月24日、教科用図書検定基準)が設けられ、その影響で文部省の第6期学習指導要領(1989年告示)で、「とくに朝鮮については我が国と深いかかわりがあり、従前よりもさらに重視するようにする」という但(ただ)し書きがついてしまった。
 反省の機会を失った韓国の歴史教科書は、日本の自虐史観に反比例するように、どんどんと自尊的になり、「しかし日本は帝国主義列強よりもさらに残忍にアジア各国を蹂躙(じゅうりん)し、20世紀の歴史を悲劇で飾った第二次世界大戦を起こした。このような悲劇は日本の朝鮮強占ではじまり、これは隣の国との友好関係を破壊したところにその原因がある」(申チェシク・洪ソンピョ『高等学校世界史』ポヂンヂェ、1990年)とまで、歴史の歪曲(わいきょく)を行うようになっていったのである。

 日本の自虐史観の対照には韓国の自尊史観があるのであり、それはひずんだ鏡のように日韓の関係を歪(ゆが)めてきた。もはやポストモダン期にある日韓では、世論は反日でも贖罪(しょくざい)でも盛りあがらない。盛りあがっているのは、韓国の反日市場で利権をあさり、同じく日本の贖罪市場で利権の維持に汲々(きゅうきゅう)とする、一部マスコミと学者たちにすぎないのではないか。

産経新聞 正論 2008.12.17

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2008年12月05日

【正論】与那国島を第二の対馬にするな

 ≪ようやく政治家が動く≫
 韓国との国境の島・対馬が過疎化と小泉改革による公共事業削減、石油高騰などの影響で深刻な経済困難に陥り、そのスキをつくように、韓国資本が島の土地を買い占めている。地理的に近いことから、韓国の観光客がドッと入るようになり、その数は島民の3倍にも達する。観光地にはハングルがあふれ、さながら韓国国内のような景観を呈している。しかも彼らは、竹島ばかりか対馬までが「韓国の領土」と主張しているというのだ。

 
 本紙は3回にわたる特別企画「対馬が危ない!!」で島の現状を報じた。すると、にわかに自民党の真・保守政策研究会と超党派の国会議員による「日本の領土を守るため行動する議員連盟」が動き出した。近く対馬を現地視察し、「防人の島新法制定の推進議員連盟」を結成して、法整備に向けて具体的に検討することになった。


 わが国周辺海域が隣国からの「脅威」にさらされている。その現実を直視せよと早くから論じてきた筆者には「いままで何をしていたのか」と問いたい思いである。ともあれ政治家がこの問題に関心を向けたことを評価したい。


 しかし筆者が恐れるのは、関心が対馬だけに局限化されることだ。そもそもわが国には、特定の島嶼(とうしょ)に関する振興策はあっても、離島およびその周辺海域の防衛・振興を含めたトータルな施策がない。対馬だけでなく、約6800に及ぶ離島全体、特に「最前線」の島、海、空を重点的に防衛する施策が、今こそ必要なのではないか。

 
≪返還前からの特殊事情≫

 なかでも筆者が竹島や対馬の二の舞いになっては困ると危惧(きぐ)しているのが、日本の最西端の島・与那国島だ。この島は台湾までわずかに110キロである(ちなみに石垣島までは120キロ)。県都の那覇までは400キロも離れている。この島には、他の国境地域の島にはない特異な問題がある。それは、わが国の領土であるにもかかわらず、島の上空に日本と台湾との防空識別圏を区切るラインが通っていることである。


 防空識別圏とは、国の防空上の必要から設定された空域である。国際法によるものではない。だが、異国の航空機が領海上空を侵犯して領土上空に到達するまで、旅客機でも1分程度、超音速軍用機であれば数十秒である。領空侵犯されて対応するのでは手遅れだ。そこで領空の外周の空域に防空識別圏を設け、事前に届け出のない航空機が防空識別圏に進入した時点で、空軍機により強制退去させる措置をとっている。


 スクランブルといわれ、一般には航空機が防空識別圏に進入する恐れがある時点で発動される。それでないと、軍用機の場合には攻撃されてしまう恐れがあるからだ。

 
 ところが与那国島では、台湾との間の防空識別圏のラインが島の上空に引かれているのだ。厳密に言えば、島の東側3分の1は日本、西側3分の2は台湾である。沖縄占領中に米軍が便宜的に東経123度で線引きしたのを、返還の際、日本政府がそのまま引き継いでしまったからだ。


 当時としては、台湾(中華民国)が友好国だからとの単純な理由からであろうか。しかし、日本政府、防衛庁・自衛隊が自国の防衛にいかに無責任であるかは、現在でも自衛隊の航空機が台湾との防空識別圏に近づくことを意図的に避けていることにはっきり表れている。


 ≪自衛隊ですら関心なく≫

 筆者は中国の東シナ海石油開発を取材する中で初めてこの事実を知り、航空自衛隊に問い合わせた。すると「何も問題ありません。あなたは何を心配しているのですか」と相手にしてもらえなかったことがある。


 台湾はれっきとした主権のもとに存在している。わが国の領土である尖閣諸島の領有権を主張して譲らないばかりか、沖縄返還時には、台湾に無断で沖縄を日本に渡したと米国にクレームをつけたことがある。さらにいえば、中国は台湾を自国の領土と主張している。もし台湾が中国に統一されたら、どういう事態になるか、防衛関係者ですら考えたことがないのだろうか。


 馬英九氏が総統に就任し、中国は経済関係の緊密化による台湾との「平和統一」を意図している。与那国島も、対馬と同じように、過疎化と経済的低迷に苦しみ、台湾との経済交流、観光客の受け入れに期待している。


 筆者は先ごろ、与那国島に初めて行く機会を得て、町議会、防衛協会の方々と話をした。島の人たちは、国境の島に対する国家の特別措置と自衛隊の駐屯を強く希望していた。与那国島が「第二の対馬」にならないうちに、手を打たなければならない。  中国軍事専門家・平松茂雄
産経新聞 正論 2008.12.4

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2008年12月04日

旧日本軍に騎士道を見た 救助された漂流英兵、艦長顕彰式に出席へ

 【フルーム(英イングランド南西部)=木村正人】第二次世界大戦中、インドネシア沖の海戦で艦隊が撃沈されて、漂流していた英兵422人を救助した旧日本軍の駆逐艦「雷(いかずち)」の故工藤俊作艦長をしのぶ墓前祭と顕彰式が12月7、8の両日、それぞれ埼玉県、東京都内で開かれる。この戦争秘話を最初に明かした元英海軍士官サミュエル・フォール氏(89)は一連の行事出席のため来日するのを前に、「命を助けてもらった恩返しに日英友好に役立ちたい」と話しており、今回の催しは、旧日本軍の捕虜となった英兵たちと日本側との和解プロセスの一助にもなると期待されている。
                   ◇
 1942(昭和17)年3月1日、現インドネシア・ジャワ島のスラバヤ沖海戦で、英重巡洋艦エクゼターと駆逐艦エンカウンターが旧日本海軍の艦隊に撃沈された。両艦の乗組員らは海に投げ出され24時間漂流。力が尽きる寸前の翌2日、雷に発見された。「幸い海は温かかった。遠くに見えた船影が日本艦とわかった時は機銃掃射を覚悟した」と、エンカウンターの士官だったフォール氏は語る。


 雷では、工藤艦長が艦橋で「戦いが終われば敵も味方もない。全員救助せよ」と命じ、「救助活動中」の国際信号旗が掲げられた。乗組員は縄ばしごや竹ざおで英兵を次々と救助、砲員だった勝又正氏(88)は「目の前で沈んでいく英兵もいた。われわれは220人。甲板は倍近い英兵でいっぱいになった」と語る。


 フォール氏によると、工藤艦長は集められた英士官たちに、「貴官らはよく戦われた。本日は日本海軍のゲストである」と述べ、十分な食料をふるまった。


 救助劇はしかし、フォール氏が87年に米海軍機関誌に「騎士道」と題して寄稿するまで語られることはなく、戦友らは旧日本軍をたたえた氏をいぶかった。


 大戦中、タイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道の建設に駆り出された英兵ら連合国軍捕虜5万5000人のうち1万人余までが死亡、英国内では元戦争捕虜らを中心に、戦後40年たった当時も反日感情が強かったからだ。彼らの一部は今も、同じ思いを引きずっている。


 戦後、外交官になり退職していた氏は「戦争はとうに終わった。日英間には真の和解が必要だ」と願い、天皇、皇后両陛下が訪英された98年にも英紙タイムズに同様の寄稿をしている。


 終戦まで3年半近くは旧日本軍の捕虜にもなった。氏はその時の記憶を問われて、「その話はするつもりはない」と口ごもり、さらに促すと「金歯」と呼ばれる旧日本軍の軍曹が「2、3人の捕虜を殴らないと熟睡できない」として捕虜を虐待していた事実を打ち明けた後、涙をぬぐった。


 工藤氏は79年に77歳で他界するまで、救助劇のことは家族にも語らなかった。雷の元航海長、谷川清澄氏(92)は「口が重く、温厚な人だった。きざな言い方をすれば武士道だが、当たり前のことをしただけだから決断した艦長も口外しなかった」と話す。勝又氏によると、姉妹艦の「電(いなずま)」も救助活動を行っており、旗艦の司令官も工藤艦長の決断を承認していたという。


 救助劇を題材に『敵兵を救助せよ』を出版した元海上自衛隊士官の作家、恵隆之介氏は、「工藤艦長が海軍兵学校で薫陶を受けたのは鈴木貫太郎校長(海軍大将)だった」と指摘する。


 大戦末期に首相を務めた鈴木は45年4月、フランクリン・ルーズベルト米大統領の死去を知り、『深い哀悼の意を米国民に送る』との談話を発表、米国に亡命中のドイツ人作家、トーマス・マンが「東洋の騎士道を見よ」と称賛している。

産経新聞 2008年12月2日(火)
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2008年12月02日

昭和正論座 はびこる盗人の「三分の理」

                    文芸評論家村松剛 昭和49年10月28日掲載 

■万引にも罪の意識なく
 
 盗人にも三分の理、ということわざがある。どんな犯罪人にも多少のいいぷんはあり、同情の余地はあり得る、というほどの意味だろう。しかし近ごろはどうやら、その「三分の理」の方が肥大して大手をふっている時代である。犯罪をおかしても、責任は外にあり、社会にあり、社会の「矛盾」とかの力にあって、当人にはない・・・。 
 
 
 先日ある公立中学校の先生から、その中学校の生徒の八割くらいが万引の経験者であるときかされた。東京の、一応「名門」とされている学校である(子供だから盗むのは
主として本とかレコードとか、そんなものらしい)。苦学して教科書さえ買えずに友だちの本を筆写したというようなはなしは、むかしはよくあったし、その結果ついわるいと知りながら手を出したというのでもあれば、まだ可愛気がある。いまの子供たちは、殆どが面白半分である。 

  
しかも彼らには罪の意識がまったくなく、先生がひそかに呼んで叱りつけると、「大企業がわるいことをしてもうけているのに、少少のものをとって何がわるい」というのが多いという。本屋の大企業というのはきいたことがないけれど、そのあたりが子供ということだろうか。  

責任はすべて「社会」に
 ゲバ学生が暴れていたころ、そのひとりにきみたちは自分のしていることがいいと思っているのか、ときいたことがある。「いいとは思わないが・・・」という返事だった。 「しかしこういうおれたちをつくったのは社会なのだから、要するに社会がわるい」

 
 責任はすべて社会にあって、自分にはない。個人の自由などと□では叫んでいても、つまりは責任をとる個人を、みずから消し去っているのである。狐つきのようなゲバ学生のいうことだからと、このときは笑ってすませたが、中学生の力のはなしには、戦慄した。同じ「三分の理」的思考方法が、形を変えて子供にまで流行していることになる。  
 何か犯罪事件が起こると、被告のだれそれを守る会とかいうものができ上るのが、このごろの流行である。

 無実の罪の被告を守るというのなら、むろん結構である。うたがう余地のない犯罪人までが、過去にうけた「差別」や「偏見」を理由に英雄化される。

 
 人種や出身による差別がわるいことは、わかりきっている。しかし、差別されてきたから犯罪を起こしても当りまえというのなら、二千年間差別されて来たユダヤ人や、そのユダヤ人からも蔑視されてきたサマリア人は、人殺しも自由であろう。不当な扱いにもかかわらず、立派に生きた人びとは大勢いるのであって、そういう人たちこそが美しい。  
 だがそんなことをいえば、社会の矛盾を個人の美徳にすりかえる論だという非難が、どうせどこかからとんでくるにきまっている。何しろ生徒に競走をさせることは階級間の矛盾を個人間の問題にすりかえることだといって、子供の駆けっこをやめさせていた日教組の先生たちさえいるのである。
  
「盗泉の水を呑む」のか

 すべてが社会のせいであり、社会の矛盾のせいであるのなら、個人の責任は解消される。そこに道徳ないしは道徳感覚の、発生する余地はない。渇しても盗泉の水を呑まず、などというのはもう古くて、渇しさせる社会の方がわるいのだから、いくらでも呑んでさしつかえない順序になる。


 
東大構内の本屋が万引に悩まされて、ついにガードマンを雇って摘発に乗り出したら、四十一人がつまり、その八割が東大生だったそうである。むかしはなかった性質の事件として、どの新聞も大きな記事として扱っていた。彼らには罪の意識が、やはりまったくないという。

 
 彼らのあとには、すでに述べた中学生の世代がつづいている。青少年の全般をこれをもってはかる気はないが、とにかくこういう青年たちまもなく役人になり、会社員や政治家になってゆくのである。  はなしはちがうが近ごろ「むつ」号の一件ぐらい、見ていて馬鹿馬鹿しく、かつ腹立たしい事件はなかった。

 原子力の時代はすでにきているのであり、およそ新しいエネルギーの開発に遅れた民族がどんな運命を辿るかは、歴史が証明している。日本には、石油資源もない。だからこそ莫大な税金を費消して原子力船をつくったのを、大騒ぎして反対し、ほんのちょっと放射線がもれると原子爆弾でも落ちたような騒ぎである。「ニューズウイーク」誌が、不可解と評しているのにあたりまえだろう。
 
 
政治腐敗にも道徳の欠如
 そのうえ、魚には何の被害もなかったのに、十五億円もの「補償金」を支払いこれを手に入れた方力の代表を英雄扱いしている新聞まであった。よその国から見れば漫画でも、日本ではゴネどくが英雄にされる。

 
 田中金権政治の実態をーーというよりは、たぶんその一端をーー「文芸春秋」誌が明るみに出し、外国の新聞、雑誌にも大きく紹介されて、ようやく田中角栄氏をめぐる「黒い霧」が、ひろい論議の的になりはじめた。ようやくというのは、いままでにもいろいろと取沙汰されながら、なぜ今日まで問題にされなかったか、不可解だからである。田中氏と特別な関係にある女が田中派の金庫番をしていることくらい、周囲の人びとには常識だったはずだろう。

 
 「文芸春秋」誌の記事が事実なら、これほどに汚れきった首相は政治史上かつてない。しかし田中氏に近い政治家は、こういうことが問題になるのなら、徒手空拳、崖に爪を立てるようにして這上った男は首相になれないではないかといったと、ある新聞に出ていた。これには、呆れかえった。生立ちの環境がわるければ、トンネル会社をいくつつくってもうけようと、国民に節約を説きながら軽井沢に三つも別荘をつくろうと、それでいいのか。

 
 責任は環境にあり社会にあり、渇したら盗泉の水を呑めと、政治家もまたいっているのである。道徳感覚の欠如した青少年の発生は、やはり 「社会のせい」ということになるのかも知れない。(むらまつ たけし)
 
【視点】
村松剛氏は昭和44年の立教大学紛争で教授会のだらしなさに腹を立て、同大教授を辞した″硬骨の人々として知られるが、大学生ら当時の若者にも非常に厳しかった。 ここでは、本を万引して「大企業が悪いことをしてもうけているのに、少々のものをとって何が悪い」と居直る中学生や、こういうおれたちをつくった社会が悪い」と責任転嫁するゲバ学生の例を紹介し、すべて社会の矛盾のせいにする当時の青少年の罪の意識の欠如を批判した。そして、「渇しても盗泉の水を呑まず」といった古い道徳の復活を暗に求めた。  若者の凶悪犯罪を格差社会などのせいにする今の評論家らに読ませたい正論だ。(石) 
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2008年11月24日

【土・日曜日に書く】悲劇を追い、語り継ぐ人々

 ≪ささやかな吉報≫
 「墓参できただけで満足なのにあの近くに眠っていたことまで分かったなんて」
 宇山冬実さん(63)は10月下旬、静岡県掛川市の自宅への記者(佐藤)の国際電話に対して、喜びを口にした。
 父、禄郎さん=当時(34)=は終戦直後の1945年9月、スパイ容疑でハルビンからソ連当局に連行された。後にハバロフスクに送られたことが確認されている。生後8カ月で生き別れて父親の記憶すらない冬実さんは、禄郎さんの足取りを追い、モスクワ周辺で銃殺刑に処された可能性が強いことをつかんだ。
 「確かな場所が分からなくてもいいから、父の墓前で手を合わせて話しかけたい」。そう話す冬実さんを、モスクワのドンスコイ墓地にある「日本人埋葬碑」にお連れしたことは9月28日付本紙朝刊で伝えた。
 この時、墓地に備え付けられた圧政犠牲者名簿の中に、「ウヤマ・R」(原文はロシア語)という名前があったと報じたことから、調査を進めた厚生労働省は、ロシア側関係者から、「禄郎さんがこの墓地に埋められたのはほぼ間違いない」との情報を確認した。
 遺骨の所在は確認できてはいないが、冬実さんは禄郎さんのすぐ近くまでたどり着いていたのだ。
 ≪闇に消える犯罪≫
 ドンスコイ墓地では、旧ソ連共産党書記長スターリンの政治弾圧による犠牲者7000人以上の遺体が焼かれ、埋められたとみられている。これはモスクワ周辺に限っての話で、「大粛清」があった30年代から戦後の政治弾圧まで含めれば、スターリンの圧政による犠牲者は、最大2500万人を上回るとの見解も欧米では出た(山川出版社「ロシア史3」)。
 犠牲者の埋葬地はソ連崩壊まで秘密にされ、確たる総数は今もなお不明だ。独裁者の「人道に対する罪」はその死から半世紀を経て、歴史の闇に消えようとしている。
 ロシアで日本人のシベリア抑留問題を20年以上も調査してきたアレクセイ・キリチェンコ氏(72)は、「日本兵は武装解除後、日本に帰還させなくてはならない−と定めたポツダム宣言9条に、スターリンが違反したのは明らかだ」と述べたうえで、「ソ連崩壊後、多数の政治弾圧の犠牲者の名誉回復がなされ、日本人も1200人の名誉が回復された。しかし、検察当局などが積極的に動いた時期はすでに終わっており、名誉回復を願う遺族は自主的にロシア外務省などに申請してアピールする必要がある」と話している。
 ≪心に潜む“亡霊”≫
 キリチェンコ氏は「ロシアではこの問題への関心は低く、仕事を引き継ぐ研究者はいない。私が死んだら終わりだ」と、危機感を示す。「スターリンの犯罪」を追及する組織はしかし、ほかにもある。
 例えば、モスクワの人権団体、「メモリアル」。90年代後半からスターリン時代の弾圧に関する情報収集を始め、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後継組織である連邦保安局(FSB)や検察庁などの資料を基に、2002年ごろから、犠牲者の逮捕事実や殺害当時の状況、埋葬地などを特定してきた。インターネットサイトでは、日本人を含む犠牲者情報を個人別に検索できる(http://lists.memo.ru/index13.htm)。
 「メモリアル」の犠牲者情報は270万人まで増えたが、データを管理するボリス・べレンキン氏は「全体の仕事からいえば、まだ25%前後しか終わっていない」との印象を述べた。そのうえで、「スターリンを称賛し、弾圧を否定する人々は今もいる。心の痛みや不快な思いを脇に追いやり、事実を認めようとしないのだ。半面、ロシアに弾圧の時代が再び戻ってこないという保証はなく、人々の心の中には恐怖感が残っている」とし、現代ロシアでもスターリンの“亡霊”はさまよっていると話す。
 「メモリアル」は10月下旬、37〜38年の大粛清から70年となるのを機に、当時の犠牲者の名前を自主的に集まった市民一人一人が読み継いで追悼する催しをモスクワで開いた。朝の10時から夜の10時まで人の列が絶えることなく続いた。
 名前の読み上げに加わった男子学生(16)は、「ソ連からロシアへと国が変わり、記憶されるべき惨事が忘れられつつある」と、参加理由を話した。
 一時の好景気に浮かれず、心の中の“亡霊”にどれだけの人が本気で立ち向かうのだろうか。それが、この国の行方を大きく左右するような気がしてならない。産経新聞 2008.11.23  モスクワ支局長・佐藤貴生
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2008年11月23日

昭和正論座 自由な日本は良い国

■加藤登紀子の国家嫌悪思想

 過日、加藤登紀子さんが、「週刊朝日」に執筆していらっしゃったエッセイに、次のようなのがあった。
  「(前略)私が生まれてたかだか三十年だが、私自身の肉体も、私自身の観念も、私の日常生活も、数千年の歴史によって規定されているのだ、と恐ろしいほどによくわかる。だから、日本というものを徹底的に知りたいという思いは、私の中に激しくつのってくるのだ。しかし、にもかかわらず、日本という言葉を発するときに、たえず嫌悪の匂いが私の中に生まれ、その言葉から逃れたい衝動にかられる。それは今や国家権力としての日本への抵抗感であることを越えて、現実世界のあらゆるところに顔を出してきているいやらしさである。学生生活を共にした友だちが、しばらくぶりに会ってみると、のっぺりと太ったサラリーマンになっていて、ゴルフと麻雀の話しかしなくなっていたりする。そのことの中に日本が見える。

 勝手ながら、私は私の流儀で生きさせてもらいますという具合にさばさばと大らかにやりたいものだと、つくづく思うのだ。アメリカ合衆国の中に黒人たちの新アフリカ共和国が存在しているように、きっぱりと自立を宣言して、生きていけたら素敵じゃないか。毎曰くり返される日常を、ことごとく自分の流儀にかえてくことによってでもいい。もちろん、ことごとくというのは容易なことではない。ただ、できる限り、今の消費体制と無関係になる努力は必要みたいだ。たとえば、テレビのコマーシャルを絶対見ないというふうな頑固な浮世はなれをしてみるとか…。
 (後略)」

 このきちんとした文章は、現在、日本の中にある、国家嫌悪思想を立派に代表しているように思う。


■さっさと他国人になっては

 敗戦以来、日本人は「日本はダメな国だ」という言い方を好むようになった。この反動の理由は、それなりに、国 民性とか、日本語の表現と か、たえず西欧を意識してその光に照らして自国を見よう とする民族的姿勢とかに関係 があるのだろうと思うが、今ここではそれに触れるつもりはない。私は自由な考えが好きで、個人がそれぞれの思いを持って暮らすことに大賛成だから、日本に嫌悪を感じずにいられないという人がいても、それはそれでいいと思う。ただ、これは老婆心から言うのだが、あまりいやだったら、何も日本人でいることはない。目下のところでは、世界でいくつかは、永住を許したり、比較的楽に、国籍を与えてくれる国があるようであるから、青年たちの中で、日本を憎む人たちは、さっさと他国人になることをおすすめする。
 
 私はヨーロッパもアメリカもよく知らず、アフリカに至っては行ったことさえないので、雲を掴むようである。私が他の方たちより少しはよく知っているのではないかと思うのはアジアの諸国だけだが、アジアの中では、目下のところ、日本ほどの繁栄と自由に恵まれている国はない。繁栄は困る、とおっしゃる方もあるようだが、国が疲弊すれば、今よりもっと多くの国民が国を嫌悪するであろう。

■アジア諸国と比べてみれば

 言論・表現の問題に至っては、これはもう、日本人は比較にならないほどの自由を得ている。ついでに言えば、日本の官僚組織はこれまた決して腐敗しているとはいえない。よき種子の中に、常に悪い種が混じることはある。しかし、役所という場所では、ルールが通るものだなどと考えていたら、他の一部のアジアの諸国ではとんだ甘いことになる。

 私たちはすでに得ているものに対しては、鈍感であり、評価し感謝することを忘れがちである。日本の警察官にも又、私は東南アジア諸国でであった警官だちと比べて、深い尊敬を抱いている。たとえば日本では、かなりの高パーセンテージで殺人や窃盗の犯人が検挙される。しかし、それがどこの国でも普通に行われ得ることだと恩ったら、大まちがいである。「届けても出るわけはないから」と考えねばならぬケースの方がはるかに一般的なのである。

 先日、シンガポールで、私は或る華僑通の日本人から、おもしろい見力を教えて頂いた。非常に多くの華僑が、しげしげと中国に行き、中国と商売をするが、それはもうけになるからというより、彼らのチャイニーズとしての精神の根が中国本土にあるから致し方ないのだという。しかし彼らの殆どは、決して中国に留ってそこで生活しようとは思わない。シンガポールは、それなりに問題はあるが、やはり生活は豊か、思想的な自由も持ちうるからだ。


■世界視野に判断する冷静さ

「そういう華僑たちを見ると、日本人はすぐ、現毛沢東政権の支持者だと言うんですね。しかし、そんなことはないんです。中国人にとって、国家とか、政府とか言うものは歴史始って以来、ずっとひどいものなんです。常に国家は租税をとり立て、子供をかっさらって行って戦いで殺した。国家が自分の生活を守ってくれるとか、国家は繁栄のために配慮すべきだとか、こうなったのは国家が怠慢だからだ、とかいう意識や発想は、きわめて日本的なものなんですな。ですから、今の中国がどんなであっても、それはそれでいいんです。今は、いわば、毛時代(マオ・ダイナスティ)に過ぎないんですよ。唐代、宋代、元代、明、という感じの毛代なんですよ。昔より、よくなっていればけっこうだし、昔のままだとしても、別に特に失望することはないわけですからね。どんなダイナスティであろうと、祖国は祖国ですからね。これは魂のよどころとして必要なんです。ですから、華僑の多くは、中国指向ですよ。しかしそれは、日本人の考えるものとは少し違うように思えますけどね」 

 憎みつつ愛する、ということもあるし、愛しつつ、破滅を願っているという場合もある。人間の心理が、表向きほど単純でないということは心理学の示す通りである。 嫌うのも惚れるのも勝手だが、その前に、自国を、世界の中に置いて、冷静なデータのもとに判断することは必要であろう。そうすると、又、意外な日本発見が可能かも知れない。幸いにも、(将来は知らないが)目下の日本には、それをする自由が与えられていることを私は深く感謝している。

(作家 曽野綾子 昭和49年4月19日掲載)


【視点】
昭和40年代の若い世代の中に、時折、国家否定のセンチメンタリズムに出合うことがあった。貧困を説し、豊かさを享受しながら、自らを高みにおいて日本と日本人の醜悪さを批判する。そうすることが、あたかも世界市民なる幻想社会の住人の義務であるかのように。曽野氏はそうしたエセ知識人の独りよがりを見事に暴いてみせた。広く世界には独裁国家もあれば、破綻(はたん)国家もある。そうした国家の指導者らは腐敗し、役人にはワイロが横行し、国民からは富を収奪していく。少なくとも日本は、国家を批判する自由も否定する自由も与えられ、曽野氏はそうした自由があることに感謝するというのだ。      (湯)

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2008年11月21日

【土・日曜日に書く】正攻法だけでは勝てない

  ≪二つの事例の共通項≫
 麻生政権下で起きた中山成彬前国土交通相の辞任と、田母神俊雄前航空幕僚長の更迭という一連の大騒動を見ていて、連想して思いだしたことがある。それは、安倍晋三元首相が首相就任前、記者と雑談しているときなどによく言っていたこんな言葉だ。
 「左派勢力は、自分たちの思想をオブラートに包み隠して政府の審議会などに委員となって潜り込み、自分たちの考えを政策に反映させている。それに対し保守勢力は、正面から意見、主張をぶつけてはつぶされている。そこのところをよく考えないといけない」
 中山氏は、「日教組は解体しなければいけない」などと発言したことを「失言」とされ、在任わずか5日間で大臣の職を去った。田母神氏は「日本だけが侵略国家だといわれる筋合いはない」などと意見を表明し、政府見解(日本による植民地支配と侵略を謝罪した「村山談話」)と異なるとして更迭、定年退職させられた。
 前者は報道各社の就任インタビューに答えたもので、後者は民間の懸賞論文への応募論文だ。両者は意見表明の場も、それぞれが主張する内容も異なる。ただ、2人とも動機・心情は純粋でも、自分の言葉がどんな結果をもたらすのか、政治的にプラスなのかマイナスなのかを十分計算して発言したようには見えないのが残念だ。
 2人が一私人の立場だったならそれでよかったろうが、大臣や空自トップとしてはどうか。保守派は、安倍氏が指摘するような左派勢力の「ずるさ」も学び、取り入れる必要があるのではないか。
 ≪村山談話の呪縛力≫
 田母神氏更迭の大本となった村山談話は、旧社会党左派出身の村山富市元首相の個人的思想・信条が色濃くにじみ、歴史のある一面を反映したものにすぎない。
 だが、それでも村山談話は閣議決定を経た政府の公式見解だ。平成10年の日中共同宣言でも「日本側は、村山談話を順守し」とあるように、一種の「国際公約」ともなっている現実があり、保守政治家の安倍氏も麻生太郎首相もこれを踏襲せざるを得なかった。
 安倍氏にあるとき、「なぜ村山談話を踏襲したのか。保守派の失望は避けられないが」との疑問をぶつけたことがある。安倍氏は次のように答えた。
 「失望を買うのは仕方がない。村山談話や河野談話をいきなり否定していたら、その時点で内閣は倒れていた。耐え難きを耐え、じわじわと前進するしかない」
 確かに、村山談話を否定した場合、安倍氏はただちに四面楚歌(そか)の状態に陥り、立ち往生したことだろう。野党やメディアが「危険な軍国主義内閣」として倒閣を叫ぶのは当然のこと、談話肯定派が多数派の与党内からも足を引っ張られ、閣内も意見不一致に陥ったはずだ。外国からも抗議や非難を浴びたのは想像に難くない。
 一方で安倍氏は、村山談話を外交の現場で使用しないよう外務省に指示。政府答弁書では村山談話に出てくる「先の大戦」「あの戦争」の表記について、「その時期など具体的に断定することはできない」とあいまいさを指摘し、談話の「骨抜き」を図ってもいた。
 ≪保守派も悪賢くあれ≫
 政治評論家の屋山太郎氏によると、国鉄民営化を行った第2次臨時行政調査会の参与を務めていた昭和56〜57年ごろ、調査会委員の瀬島龍三伊藤忠商事会長に次のようにクギを刺されたという。
 「公の場で『これは、国労(国鉄労働組合)つぶしでもある』と言ってはいけない。そのことはみんな頭の中にはあるけれど、それを口にしたら『組合つぶしのための改革か』と必ず誤解され、改革反対勢力の口実に使われる」
 当時、国労は左派勢力と結託し、ストライキなどで暴れ回っていた。屋山氏はこのころ、月刊文芸春秋誌に「国鉄労使『国賊』論」を発表していたため目をつけられたようだ。今、「瀬島さんに『君が一番、言い出しそうだから、気をつけてくれ』といわれた。ずるい面も含めて利口な人だった」と振り返る。
 ことを成すためには、ときには徹底した慎重さが求められるのだろう。時期を選ばなければ、たとえ「正論」であっても反対勢力を利するばかりということもある。
 田母神氏の論文が問題化した後の11月4日、麻生首相は記者団に集団的自衛権の政府解釈の見直しを検討するか聞かれ、「まったくありません」と述べた。首相は9月の国連総会出席時には「僕は解釈を変えるべきものだとずっと言っている」と語っており、この後退ぶりは田母神氏の件と無縁であるとは考えにくい。

 中山、田母神両氏の無念さを思うにつけ、保守派にはもっと、悪賢く立ち回るぐらいであってほしいと願う。
産経新聞 政治部・阿比留瑠比 2008.11.16

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2008年11月20日

高校中退の理由

高校中隊の理由
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2008年11月15日

【土・日曜日に書く】■村山談話の検証が不可欠だ

 ■村山談話の検証が不可欠だ
 ≪論文内容は問題でない≫
 「我が国が侵略国家だったというのは濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)」とする論文を公表した自衛隊の田母神俊雄航空幕僚長が、先の大戦を「侵略」と断じた村山富市首相談話に反するとして更迭された。

 
 田母神論文を読むと、関東軍将校による計画的な事件とされる張作霖爆殺(昭和3年)をコミンテルンの仕業とする異説や、盧溝橋事件(昭和12年)で劉少奇が西側記者に会見を行ったという未確認の話に引きずられている面もあるが、論旨は通っている。

 
 今回、そのような資料評価の問題は、それほど重要ではない。問題は、幕僚長更迭の根拠とされた「村山談話」の当否である。


 村山談話が出された平成7(1995)年は、戦後50年の節目の年にあたっていた。自民党と社会党、さきがけの3党による自社さ政権が連立内閣を組織し、最大野党は新進党だった。

 先の大戦をめぐって、社会党出身の村山首相はひたすら「謝罪」と「反省」を繰り返し、その村山首相の意に沿わない閣僚や閣僚経験者の多様な歴史観が次々と近隣諸国から非難された。

 6月、渡辺美智雄・元副総理兼外相が「日韓併合条約は円満に結ばれた」と発言したことに韓国が反発し、渡辺氏は謝罪した。

 8月、島村宜伸文相は「侵略か侵略でないかは考え方の問題」などと発言し、中国・韓国が反発した。文相は厳重注意を受けた。

 一方、国会では、「数々の植民地支配や侵略的行為」に「深い反省の念」を表明した戦後50年決議案が、衆院で野党新進党が欠席する中、与党3党の賛成多数で可決されたものの、参院での採択は見送られた。

 ≪唐突に閣議に出された≫
 「遠くない過去の一時期、国策を誤り」と決めつけ、「植民地支配と侵略」に対する「痛切な反省の意」と「心からのお詫(わ)びの気持ち」を表明した村山談話は、そうした異様な政治状況の中で、唐突に閣議に出されたものだった。

 8月15日の閣議に先立ち、野坂浩賢官房長官は有力閣僚や与党幹部に内容を詳しく説明せず、「総理の気持ちなので、どうか何も言わずに了解してほしい」と頭を下げて根回ししたといわれる。

 閣議では、古川貞二郎官房副長官が村山談話を読み上げた。閣僚は誰一人発言せず、出席者によると、「水を打ったような静けさだった」という。

 閣議後の会見で、村山首相は国策を誤った時期について「断定的に言うのは適当ではない」と明言を避けた。日本がいつの時代までさかのぼって謝罪しなければならないのか、今も明確ではない。

 当時、運輸相として初入閣した平沼赳夫氏は後に、産経新聞の取材にこう語っている。

 「事前の相談は全くなく、唐突に出た。社会党出身とはいえ、何でこんなの出すのかなと思った。ちょっと問題のある文章だなと思ったが、あえて発言しなかった。今思えば率直に思ったことを言っておけばよかった」
 この年は、村山談話発表後も、閣僚の発言が中韓両国から非難される状況が続いた。

 10月、村山首相が参院本会議で「日韓併合条約は法的に有効に締結された」と答弁したことにも韓国が反発し、首相は「相互の立場が平等ではなかった」「舌足らずだった」などと釈明した。

 11月には、江藤隆美総務庁長官が内閣記者会のオフレコ懇談で「植民地時代に日本は韓国にいいこともした」と話した内容が月刊誌に漏れた。村山首相は江藤長官に厳重注意したが、韓国は納得せず、江藤長官は辞任した。

 その江藤氏も生前、村山談話について「閣議で突然、首相談話が出てきて仰天した。(反対と)言っても始まらないと思って黙っとった」と話していた。

 ≪作成過程の解明も必要≫
 村山談話は、日本の閣僚や政治家の言論が事実上、中国や韓国の“検閲”下にある中で、両国の納得が得られる形で出された外交文書のようなものでもあった。

 この11日、参院外交防衛委員会に参考人招致された田母神氏は「村山談話を公然と批判したことはないが、自衛官にも当然、言論の自由は認められているはずで、それが村山談話に制約されることはないと思っていた。私のどこが悪かったか(懲戒手続きで)審理してもらった方が問題の所在がはっきりする」と答えた。

 村山談話は当時、内閣副参事官だった松井孝治氏(現民主党参院議員)が起草し、内閣外政審議室長だった谷野作太郎氏(後の駐中国大使)が親しい学者と相談して仕上げたものだといわれる。

 今後、国会がすべきことは、村山談話の作成から閣議決定に至る過程をきちんと検証することである。

【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 産経新聞 2008.11.15

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2008年11月05日

北海道内の留学生

道内の留学生

読売新聞 20.11.5
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2008年11月04日

主な国・地域のネット人口と普及率

ネット人口と普及率
 
読売新聞 20.11.4
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2008年11月02日

日本は侵略国家であったのか

アパ懸賞論文   田母神俊雄航空幕僚長アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコ
ミンテルンに動かされていた。1936 年の第2 次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。 1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月に3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35 年間で1 千3 百万人の人口が2 千5 百万人と約2 倍に増えている

「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924 年には朝鮮に京城帝国大学、1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が1931 年の大阪帝国大学、9番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。

 戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(
ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。
朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金錫源(キン・ソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1 千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。

李王朝の最後の殿下である李垠(
イウン)殿下も陸軍士官学校の29期の卒業
生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930 年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥傑(フケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。

一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。

時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。
その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600 名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21 箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。

また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901 年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。

さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(N S A )のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18 年5 月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940 年から1948 年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1 回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。

そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37 年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980 年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995 年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933 年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3 百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100 機からなるフライイングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。

真珠湾攻撃に先立つ1 ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。
ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1 撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2,第3 の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。
一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。

現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は60 年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実行支配が続いている。

東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国
の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20 年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。

タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自
分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。
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2008年10月25日

2008年10月23日

【対馬が危ない】(下)生き残りへ苦渋の“歓迎”

風光明媚な対馬。経済不振、過疎化でかつての活気がすっかり失われつつある=美津島町竹敷

◆強い島民の孤立感
 「対馬は何県?」。こんな問いに「長崎県」と即答できる日本人は何人いるだろうか。「福岡県」と答える日本人も結構多い。 対馬市議会の国境離島活性化特別委委員長の作元義文市議(58)はこう言う。

 「対馬は行政圏は長崎だが、
経済圏は福岡。区分けが中途半端なうえ、県庁所在地の長崎まで行くのに往復2万5000円もかかるから、対馬の人間にとって、本土はますます遠くなる。本土の人も、交通の便が悪いこともあり、年々対馬から遠ざかっていく。対馬の存在感は薄い」 「福岡と対馬をむすぶ連絡船も、値上げをするところもあれば、便数を減らすところもあり、ますます距離が広がっていく」 聞けば聞くほど、本土と対馬の距離を感じる。

 作元市議は島民の思いをこう代弁する。
「島民は、日本から見放されていると感じ、孤立感でいっぱい。だったら、少々のことには目をつぶってでも韓国と仲良くすればいい。福岡からは約130キロあるが釜山まではわずか50キロだから親近感がある」 対馬は今、島民の心の隙間(すきま)を狙うかのように不動産の買い占めに奔走する韓国資本と、怒濤(どとう)のように押し寄せる韓国人観光客に右往左往するばかりだが、それでも韓国人、韓国資本を受け入れざるを得ない大きな課題を抱えている。

◆経済悪化、過疎に拍車
 
対馬は、南北約82キロ、東西約18キロの細長い島だ。89%が山林に覆われ、耕地面積はわずか1・4%。平成17年の
国勢調査によると、第1次産業の林業、漁業が21・1%を占めた。だが、林業は価格の低迷で、漁業も燃料費の高騰や価格安などで危機的な状況に追い込まれている。

 作元市議はこう嘆く。
 
「漁船の重油は今、1リットル130円もする。60円を超えると採算が取れない。19トンのイカ釣り船の場合、1回に2000リットル積んで3日で使い切る。燃料費だけで26万円もかかるから1日に10万円の水揚げをしないと、燃料費も出ない。それにイカの卸値は、20匹で2000円ぐらい。これから燃料費や氷代を差し引くと手取りは500円ほど。勘定が合うはずがない」


 財部能成市長(50)は対馬の経済状況をこう説明する。
 
「昭和28年に公布された
離島振興法で、港湾整備や道路整備などの公共事業が増えたため、潤っていたが、小泉改革で、公共事業が削減され建設業は倒産が相次いだ。水産業も水揚げ高は大きかったから、地域に金が回り、シャワー効果があったが、今は燃料費が上がり、船を出せなくなっている状況だ」

 経済状況の悪化は島の
過疎化に拍車をかけている。働き場所がないため、毎年1000人前後が離島、一時は7万人あった人口も年々減少し、今では3万7117人(今年7月現在)と、激しい勢いで過疎化が進んでいる。しかも、残った若年労働者は各地区に2人いるかどうか、それも50代だという。

 
過疎化については、出稼ぎに出ている島民も多く、実際の人口は、言われている数よりさらに3、4000人は少ないという声もある。

■“防人の島新法”望む声
 
◆韓国は経済起爆剤
 
生き延びるためにはどうすればいいか。浮上したのが、歴史的にも交流のある韓国からの観光客の誘致だった。


 市は、17年度から19年度まで、県と共同で、厳原(いづはら)−比田勝(ひたかつ)間のシャトルバス代として、1人当たり2330円の補助まで出している。同地域再生推進本部によると、その額は、17年度が456万2000円、18年度が481万8000円、19年度は850万円にのぼった。韓国人観光客の歓心を買うため、税金で交通費を補(ほ)填(てん)したことに反発の声が聞かれるが、その是非は別として、それほどまでに韓国に依存せざるを得なかったということだろう。


 対馬観光物産協会総代の高雄武保さん(83)は「韓国から観光客が来てもらわないと困る。雨だれが垂れる程度でも、韓国との交流は対馬の経済浮揚につながる」と期待感を隠さない。
 

 厳原町
のホテル経営者が「それぞれ文化が違うのだから、マナーが悪いといっても仕方がない。それより、1日1万円でもいいから落としてもらったほうがいい。以前は絶対に韓国人は泊めないと言っていたホテルも背に腹は代えられないのか、受け入れる数が増えてきている。生き延びるには、韓国人を受け入れるほかないのです」と心の内を吐露したが、それは、多くの島民の共通した思いだった。

 もちろん、島民の間には、公共事業に頼りすぎ、国内向けの観光行政を怠ってきたため、そのツケが回ってきたと、行政当局を批判する指摘もある。

 だが、もはや、責任の所在を追及している段階ではない。国家の要衝が韓国に侵食されていく。インタビューをしたほとんどの島民は、生きるための苦渋の選択と危機感のはざまに立たされていた。


◆ようやく危機感台頭
 
こうした状況に
対馬市もようやく目が覚めたのか、危機感を強めてきている。 財部市長は「少なくとも国境に面した島については、安全保障の点からも外国資本による不動産買収を認めない除外規定など、実効支配につながることを防ぐ手だてを設けるべきだ」「日本人の国境に対する感覚は極めて希薄。対馬の資源を生かした新たな産業を興すなど、国境に面した島を守る施策をとるべきだ。それが国境を国土として国が守っていくことになる」と“防人(さきもり)の島新法”の成立を訴える。

 駐留する自衛隊の増強も一つの手段だ。本土に住む日本人が当事者意識を持って不動産の買収に乗り出し、買い占めに歯止めをかけるのもその方法だ。対馬の特性を生かし、海洋学などの教育施設を造ることもありうる。


 
対馬市では、新法の素案作りを始めたが、対馬問題は単に対馬だけの問題にとどまらない。国家防衛は、常に最悪の事態を想定しなければいけない。 島民からはこんな声が聞こえてきた。 「韓国によるリゾート化は、密航組織に利用される懸念があるうえ、有事の際にはゲリラの潜入さえ可能にしてしまいかねない」

 韓国資本による対馬攻勢は激しいスピードで進んでいる。残された時間は少ない。
(編集委員 
宮本雅史)産経新聞 2008.10.23 
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2008年10月22日

【対馬が危ない】(中)島民の3倍、韓国から大挙

「対馬が危ない」(上)では、韓国資本による対馬でのすさまじい不動産買収ブームを伝えた。第2回では、年々増え最近では大挙してやってくる韓国人観光客の実態、島は彼らをどのように迎え、そして、どのような感情を抱いているのかを、率直な声を交えて報告する。(編集委員 宮本雅史 

 ◆交通標識もハングル
 対馬を車で走ると、至る所に、名所、旧跡を示す交通標識にハングルが併記されている。途中、韓国人観光客を乗せた観光バスに何度も出合った。日本人観光客の姿はない。  ここ数年、国内からの観光客が減少する半面、韓国資本による民宿や釣り宿などの買い占めを促すかのように、韓国人観光客が大挙して押し寄せている。

 今月初めの土曜日、島の中心地に近い厳原(いづはら)港ターミナル。午前11時前、秋晴れの日差しを浴び、白地に鮮やかなブルーと赤のラインが入った「
ドリームフラワー」号が入港してきた。大亜高速海運(釜山)が運航する定期国際航路で、釜山港と厳原港を約2時間10分でむすぶ。観光客のほとんどは、家族連れや釣り客だ。  大亜高速海運のグループ会社で、出入国の手続きをしているジャパン大亜によると、この便での観光客は277人で、午後2時には新たに230人が訪れるという。

 ターミナルから少し歩くと、
厳原町の中心部に出る。厳原町は、鎌倉時代から600年以上にわたり対馬を統治した宗家10万石の城下町だ。今も、武家屋敷が当時の面影を残す。  飲食店やホテルが立ち並ぶ厳原本川沿いでは、下船したばかりの韓国人観光客が十数人単位の集団で、ブラブラと、横に大きく広がりながら歩いている。タクシーが近づいても気にしない。道を開ける気配もない。その数は、週末を楽しむ島民より明らかに多い。島内唯一の免税店前にたむろしているグループもいる。ガイドらしき女性に先導されて集団が向かう飲食店をのぞくと、すでに満席だ。日本人の姿はない。
 
 対馬に韓国人観光客が集中するようになったのは、平成11年7月、釜山−厳原間に国際航路が就航してから。13年4月、新たに、島北部の比田勝(ひたかつ)港と釜山港を約1時間20分でむすぶ航路が運航されると、年間約1600人程度だった観光客が急増、16年には2万942人に。その後も増加の一途をたどり、17年は3万6636人、18年は4万2002人、そして、19年には6万5491人を数えた。財部能成・対馬市長(50)は「現時点ですでに昨年の44%の増。これまで毎年、前年比で50%アップで推移してきたが、今年も間違いなく8、9万人にはなるだろう」ともくろむ。  現在、対馬市の人口は3万7000人余りだから、人口の3倍近い韓国人観光客が押し寄せる計算になる。

◆地元は潤わない 
 観光客が増えれば、当然、飲食店なども増える。
 対馬協議会事務局長の友納徹さん(58)によると、2、3年前から、韓国人相手の居酒屋や料理店、ホテルが増え、厳原本川沿いでは、すでに8店舗が韓国人相手に模様替えをし、カラオケ店を計画している店もあるという。ホテルの観光バスで案内をしているうちに、韓国人向けの飲食店を開いた島民もいるという。

 これだけをみると、島全体が活気づきそうなものだ。ところが、島民の表情はそうでもない。どことなく暗い。
  商工会の関係者は「観光客で潤っているようにみえるが、実はそれほどでもない。渡航費は全部韓国の船会社に入るし、食事も韓国人が経営する飲食店を利用している。土産も、それほど買っているようには見えない」とぼやく。

 
 精彩を欠く理由はここにあった。韓国人はそれほどお金を落としていないのだ。 長崎県対馬地方局の池松誠二局長(52)は「観光客は釜山で10万円分のウォンを円に両替し、帰国時に8万円をウォンに戻している。だから、1人当たり2万円ぐらい、トータルで13億円ぐらいは対馬で使っているのではないかと推測している」と楽観的だが、島民の話を聞くと、この13億円という数字は怪しい。

 
 韓国人観光客を専門にするホテルの従業員も「うちは1泊6000〜7000円ぐらいだが、韓国人は特別料金で、2000〜3000円ぐらいで泊めているようだ。それで採算が取れているのかどうか…」と、格安サービスに首をかしげる。 

■「ここはわれわれの領土だ」
◆万引、ゴミに頭抱える 
マナーの悪さを指摘する声もある。
 厳原町で飲食店を経営する中嶋明雄さん(49)は、「酔ってツバを吐いたり、以前、ただ食いされたこともある。スーパーなんかでは、集団で万引されたという話も聞いた。
酔って、『竹島と同じで対馬も韓国の領土になる』と叫ぶのを何度も聞いた。勘違いしているんじゃないかと思う。うちは絶対に韓国人は受け入れない」と反発を示す。

「山登りをする韓国人も多いが、糞尿(ふんにょう)処理とゴミ対策が大変だ」と頭を抱える商工会関係者もいる。

 
 漁業関係者からも怒りに似た声が聞こえる。対馬市議会の国境離島活性化特別委員会委員長で自ら定置網漁業を営んでいる作元義文市議(58)はこう不満をぶつける。

 「外国人に禁止されているまき餌で、メジナやイサキ、イシダイなどを狙ってくる。手引きをしている島民もいるようだ。日本人は、小さい獲物はそのまま海に帰して、大きくなるのを待つが、連中は、クーラーがいっぱいになるまで持ち帰る。韓国で商売でもしているのでしょ」
 

 さらにこんな問題も起きている。
 比田勝港ターミナルで観光客の出入りをチェックしている上対馬観光物産事務所長の武田延幸さん(58)はいう。

 「添乗員もガイドも韓国人なのが問題。日本語を正確に理解できない者もいるし、何より、正確な歴史教育を受けていないから、間違った説明をするため、観光客も間違った印象を持って帰る。旅行会社の社員のなかには、『対馬は韓国の領土だ』とはっきり言う者もいる。これが一番の問題だ」

 
 韓国人観光客と市民の間には、さまざまな問題や不信感が生じている。しかも、すでに紹介したように水面下では、不動産の買い占めが着々と進んでいる。それでも、韓国人を受け入れざるを得ない。

 
 対馬はどこへ行くのか。取材を進めると、その背後には、本土から遠く離れた島に住む「日本人」の悲鳴が聞こえてくる。産経新聞 2008.10.22  
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2008年10月21日

【対馬が危ない】(上)韓国、不動産相次ぎ買収

島内の韓国展望所からは、晴れた日には、遠く釜山をはっきりと望むことができる。しかし、眼下には防衛の要、航空自衛隊海栗島分屯基地のレーダー施設が広がっている=上対馬  

古事記
日本書紀にも登場する「対馬
」(長崎県)。
国境を背負い、古来、防衛の要衝だった“防人の島”が、韓国パワーに席巻されている。韓国からの観光ラッシュに続き、島の不動産が続々と韓国資本に買い占められている。リゾートホテルに民宿、釣り宿…。

 過疎化に悩む
対馬自身が本土よりはるかに近い韓国に傾斜せざるを得ないという複雑な事情もあり、豊富な資金力を武器に買収はこれからも激しさを増すだろう。韓国人観光客のなかには、自国領土と本気で信じ込んでいる人すらいる。日本人が気づかない間に、
対馬は、安全保障、主権国家としての領土保全にかかわる深刻な事態にさらされつつある。(編集委員 宮本雅史

 
自衛隊基地隣接地も 
対馬空港に到着してまず耳にしたのは、島内の不動産が韓国勢に買い占められていることを危惧(きぐ)する声だった。それも1人や2人からではなかった。中でも、「海上自衛隊の基地に隣接する土地が韓国資本に買収された」という話に危機を直感した。 

 真偽を確かめるため、
対馬市の中心街・厳原(いづはら)町から車で国道382号線を北上、海上自衛隊対馬防備隊本部がある同市美津島町竹敷を訪ねた。 

 
竹敷地区はリアス式海岸特有の湾曲に富んだ入り江と無数の小島からなる浅茅(あそう)湾に面している。古くは遣新羅使が停泊するなど、船舶交通の中心だったが、明治19(1886)年に、自然が作った海の迷路を生かして、水雷施設部が設置されたほか、日清戦争後はロシアに対する前進根拠地として海軍要港施設が整備されるなど、国土防衛の要害であり続けた。 

 余談になるが、近代に入り、ロシアやイギリスの
対馬接近に脅威を感じた日本政府は、島内30カ所に砲台を整備。特に昭和初期に作られた上対馬豊砲台には、巡洋戦艦から航空母艦に転用された「赤城」の40センチ連装砲塔を設置するなど、対馬海峡全体を防衛できるよう整備した。この豊砲台は太平洋戦争後、連合軍が解体を試みたが、あまりにも堅固過ぎ爆破するしか手段がなかったという。 
 ある地元住民が匿名を条件にこう言って顔を曇らせた。

 「自衛隊の動向がいつも監視されているような気がする。買い戻そうという声が上がったこともあるが、一度買ったものを手放すはずがない。今更、手の打ちようはないが、せめて両陛下の記念碑だけは市が引き取るなど対処してほしい」
 
 
 対馬で民宿を経営する在留韓国人によると、このリゾートホテルの実質的なオーナーは
釜山に住む60代後半の畜産会社社長。最初は別荘を計画、知り合いの島民名義で3000坪を5000万円で購入したが、その後、2億5000万円の費用をかけてホテルに改築したという。
  この韓国人は「10人ぐらいの地元島民をかき集めて、突貫工事で完成させた。工費はすべて、現金で支払われた」という。

 
 そういえば、門に使われている檜は、至る所がひび割れしていた。生木を十分に乾燥させないで使ったためだろう。いかに急ごしらえで改築したか。その性急ぶりを象徴している。

 
土地名義も経営者名も島民…最近まで気づかず 竹敷地区の漁業を管轄する美津島町西海漁業協同組合の黒岩美俊組合長(74)によると、同地区には、このリゾートホテル以外にも、防備隊本部に近接するように韓国人が経営する民宿が2軒あり、20人近い島民が雇われているという。 

 
対馬空港から車で5分ほど行った対馬海峡浅茅湾をつなぐ大船越地区でも民宿が韓国人女性に買収されていた。  そこで働く島民によると、もともと、日本人が経営していたが、昨年、経営不振で競売に出された。それを知った旅行会社の元添乗員だった韓国人女性が、知り合いの日本女性の名義で、土地と建物を650万円で購入したという。 

 近くに住む3人の日本人女性が雇われ、掃除や食事の準備をしているという。
 作元市議によると、不動産の買い占め場所は1カ所に集中せず、点在しているが、なかでも風光明媚(めいび)な浅茅湾の周辺に人気があるという。ただ、「浅茅湾には無人島が多いので、これからは何十とある無人島に触手を伸ばす韓国人も出てくるのでは」と激しい買い占め工作に危機感をつのらせる。

 
ホテルや民宿だけでない。釣り宿も標的になっている。朝鮮海峡につながる峰町狩尾三根湾沿いにある釣り宿を訪ねた。韓国人観光客が20人ほど、釣りの準備をしている。船長らしい日本人に声をかけてみたが、警戒しているのか、反応が鈍い。顔を曇らせたのは、外国人に禁止されているまき餌に協力している可能性があるからだと、後で知った。釣り船は4隻。午後2時に出発して日没後の午後9時ごろまで客の面倒を見るという。

 
従業員は島民
 この釣り宿は、在留資格のある韓国人が現地法人を立ち上げて経営、オープンして4年になる。もちろん、宿泊客は韓国人観光客で従業員は近くの島民だ。 

 対馬協議会事務局長の友納徹氏(58)によると、この釣り宿のオーナーはさらに、大きな観光ホテルを計画しているようだという。
 
 観光地にバンガローを建てる韓国人もいる。日本海海戦記念碑が建立され、三宇田海水浴場にも近く、観光地として知られる上対馬町殿崎。朝鮮半島を望める韓国展望所に通じる県道わきの雑木林から茶色の屋根が7つのぞく。韓国人が島民名義で建てたバンガローだ。
 
 地元島民(75)は「この夏、見かけん子供がいっぱいおるけん、どこの子かと思って話しかけたら、韓国語でしゃべるからびっくりして。しゃべらんと全く分からん」というが、時既に遅し。土地の名義も経営者の名前も島民になっているため、最近まで全く気づかなかったという。

 
 友納氏によると、不動産の買い占めが始まったのは20年ほど前のことで、当時は、宗教団体関係者が1000万円単位の現金をちらつかせて買いあさっていたという。ここ数年は韓国資本が個別に進出、民宿だけでも島全体ですでに15軒ほど買収され、進行中の計画を含めるとその数はさらに増えるという。

 
チラつく中国の影
 同氏は「つい最近も、上対馬で30万坪の山林を漁業関係者から買おうとする動きがあった。これはうまくいかなかったようだが、気になるのは、韓国人だけでなく、中国の影がちらつくケースもあることだ。マンションを買って民宿を始めたある韓国人を調べると、中国と取引をしていることが分かった。とにかく、買い占めているのが民間人なのか、企業なのか、それとも組織だったものなのか、全く分からない」と続ける。  

こうした韓国資本による不動産の買い占めに財部能成市長(50)は「韓国人が、現地法人を作ったり、日本人の名前を使ったりして不動産を取得しているのは事実のようだ。特に、経営不振の民宿が狙われやすいと聞いている。ただ、どのくらい買い占められているのか、実数はつかめない。島全体に点在しているし、書類を見ただけでは分からない。情報をもとに推測するほかない」と頭を抱える。
  買い占めている韓国人の目的はおろか、その素性さえも分からないというのが実情だ。

 
強い韓国領土意識
 対馬の領有権については、太平洋戦争後、李承晩政権が、連合国軍総司令部(GHQ)に対し、竹島だけでなく、対馬についても「韓国の領土であり、日本によって強制的、不法に占領された」として、日本からの割譲を要求したが、GHQは「根拠がない」として一蹴(いっしゅう)している。

韓国側は、慶尚南道
馬山市議会が、平成17年、「対馬島は韓国領土であることを内外に知らしめ、領土権確立を目的とする」という条例を可決するなど、対馬が韓国領土であるという主張を崩していない。しかし、魏志倭人伝にも対馬は倭国の領土であると記載されており、有史以来、韓国の領土ということはありえない。

 
 ただ、上対馬観光物産事務所長の武田延幸さん(58)が「観光客の中には『対馬は魅力がある。やはり、昔から、対馬は韓国のものだから、山も欲しいよねえ』とはっきり言う者もいる」というように、依然として、対馬が韓国領土だと信じている韓国人がいるのも事実だ。対馬が韓国の領土という意識が強ければ強いほど、ますます、進出してくるのは火を見るより明らかだ。 

 実際、話を聞いた在留韓国人は「これからは在留資格をとって、本格的に進出してくる韓国人が増えるのではないか」と断言した。  財部市長が「このままでは、10年かかるか20年かかるか分からないが、いずれ韓国色に染まってしまう可能性がある」と漏らした。
  国家の要衝が、虫食いのように侵食されていく。根は想像以上に深い。数年後、オセロ風ゲームのように、気がつくと、島の大半が韓国色に染まっているという事態も十分に予想される。財部市長の不安は、単なる危惧(きぐ)では済まされない。対馬はそこまで追いつめられている。               

【対馬】
長崎県に属し、周囲に大小98の属島を持つ国境の島。平成16年に元の6町が合併、島全体が対馬市となった。最大の街は、厳原(いづはら)町で、同町から福岡までは対馬海峡をはさんで約138キロ離れている。島の最北端の比田勝港から釜山までは最短距離で49.5キロと半分以下の近距離にある。ほぼ全域がリアス式海岸に囲まれ、島の中央部にある浅茅(あそう)湾は風光明媚な観光地として知られる。『古事記』には最初に生まれた島の一つとして「津島」と、また、『日本書紀』には「対馬州」「対馬島」と記されている。古代から大陸との交流があり、外交面での要所であると同時に、防衛、侵攻の最前線基地だった。
産経新聞 2008.10.21
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2008年10月20日

中国の少数民族支配と搾取には共通のノウハウ

 中国の少数民族支配と搾取には共通のノウハウ
  「人権」の問題は本質ではなく、侵略者がそこにいまもいる、のが大問題だ
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 欧米は中国の少数民族支配を「人権」の視点で捉えている。
 ここで言う「少数民族」とはチベット、ウィグル、南モンゴルなど。
 人権問題は、しかしながらコトの本質ではない。基本は他人の国を侵略し、略奪の限りを尽くした後も、その残忍な侵略者が、まだそこにいて、残虐無比な支配を続行しているという事実である。

 中国共産党の少数民族「支配」のノウハウには下記の七つの共通項がある。

 第一は言語政策と歴史教育である。徹底した普通語(北京語)教育を小学生から強制して教え込み、民族独自の言葉を若者から奪った。
チベットでもウィグルでも若者の多くが、いまや伝統的な言葉を喋れない。大学入試も公務員試験も、自動車免許も北京語である。
 民族が伝統的な言語を失うと、歴史の記憶も希薄になり、やがて民族のアイデンティティを失う。
それが中国共産党の長期的戦略にもとづく少数民族支配の基本原理になる。

 第二は党細胞が、侵略した地域の奥地に至るまで確立されており、行政が末端に及んでいると豪語している。
 実態は漢族が基軸の党細胞で、田舎へ行けば行くほど都会で死滅寸前の「當案」(個人の監察プロフィル)が生きている。
 したがって支配階級(=党)に反旗を翻そうと組織行動をとれば、すぐに弾圧される。

 第三は資源の盗掘を「地域の経済発展」だと嘯いていることだ。
たとえばチベットでは「農奴」を解放してやったなどとして軍の侵略を正当化しているが、チベットは遊牧の民で農奴はいなかった。
チベットの水資源は長江、黄河に流れ込んでいる。
 ウィグルは核実験場として、或る研究レポートでは19万人が被爆して死亡したという。広島の直接の爆死者より多い。そのウィグルで原油とガスを漢族の「企業」が盗掘し、上海など漢族の生活圏へ輸送している。
地元に利益還元は殆どされず、たとえ利益還元があっても、それは地元の共産党幹部しか潤っていない。
 モンゴルからも石炭や鉱物資源が盗掘されている。

 第四は徹底した宗教弾圧である。
 ポタラ宮殿は千もの部屋があるが、いたるところに公安がいる。多くの仏教寺院には境内のなかに公安の詰め所、大伽藍のある宗教設備にはパトカーが常時駐機している。
 モスクはかたちが残るだけで朝のお祈り風景は見られず、いやコーランが禁書であり、宗教音楽さえ聴くことは稀である。
 だから人々は「どうぜスパイが混入した表通りの寺院やモスクへは行かない」。キリスト教の多くは地下教会でお祈りをする。

 第五は都市設計である。
 フフホトではモスクの周囲に異民族の新しい移住があり、チベット仏教の周りはイスラム街区となっている。
ラサでもモスクが目を引く。ムスリムが大量にチベットに移住させられている。
 こうして異教徒をモザイク状に配置して民族同士の紐帯を阻害し、分断し、支配を強固なものにするのである。


 ▲漢族以外の「少数民族」に対しては人間の尊厳が無視されている

 第六は民族浄化。雇用差別である。
典型例がウィグルの少女達の「集団就職」である。山東省の工場に押し込められて外出の機会がほとんど無い。あげくは漢族男性との結婚を勧められ、長い期間をかけての民族浄化が巧妙なスタイルで行われるわけだ。
 ウィグルには、革命後は多くの満州族が強制移住された。その後、漢族の移住が推薦され、省都ウルムチは90%が漢族の街となった。現地では漢族に就職が斡旋され、アパートが提供された。
 このウィグルを十六年の長きにわたって支配しているのが王楽泉(新彊ウィグル自治区党書記)である。
 この男は山東省出身で、かれの周りは山東マフィアが取り巻き、実弟らが利益集団を形成している。
「テロリストの対象になっている」と嘯いて大勢のボディガードに囲まれて移動する。民衆の怨嗟の的になっていることだけは自覚しているらしい。
漢族以外の「少数民族」に対しては「人間の尊厳」が無視されている(そもそも数百万のチベット族、ウィグル族、モンゴル族を「少数」と規定する語彙の使用そのものが、政治的意図をもった言葉による詐術である)。
欧米の唱える「人権」は、そうした文脈では有益な政治運動であるが。。。

 第七は軍事優先ですべてがなされていることで、民主主義って、それ何?という感じである。チベット居住区(チベット自治区、四川省、青海省、甘粛省にまたがる)には合計五十万といわれる人民解放軍ならびに武装人民警察が駐屯している。
 ウィグルには70万人と言われる。
 反漢族への反乱が起きたとき、軍事的にひねりつぶすため、対外戦争の筈の軍が対内戦争の準備のために割かれているのである。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
    平成20年(2008年)10月20日(月曜日) 通巻第2352号 から引用

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2008年10月19日

【正論】またぞろ“A級戦犯”分祀論が

  ≪古賀、石原両氏の発言≫ 今月18日から3日間、靖国神社の秋季例大祭が行われる。秋色いよいよ深まりゆく九段の杜を多くの人々が黙々と歩む姿が見られるだろう。本来は、こうした静かなたたずまいの中で、戦没者への追悼の思いを捧(ささ)げる場なのだが、ここ2カ月ばかり、靖国神社がまたも騒がしい議論に巻き込まれてしまった。

 そのきっかけは、8月17日のテレビ朝日系「サンデープロジェクト」での古賀誠日本遺族会会長の発言である。古賀氏は「われわれ遺族には何の相談もなく、A級戦犯を合祀(ごうし)したのは納得いかない。元に戻すことが大事」と語った。この発言に石原慎太郎東京都知事が「刑死した戦没者ならぬ、戦犯の合祀という愚挙」と応じ、古賀氏の主張する「戦争犯罪人の分祀」に満腔(まんこう)の共感の意を示したからである(9月8日付「産経新聞」)。
 
  真っ先に指摘しておきたい。昭和53年10月にいわゆる“A級戦犯”14人を合祀するに際し、靖国神社は事前に崇敬者総代会に諮って了承を得ていたが、総代の一人に遺族会会長である村上勇衆院議員がいたのだから、「遺族には何の相談もなく…」という古賀氏の批判は当たらない。

 この“A級戦犯合祀”が一般に知られるようになったのは、合祀の翌年である昭和54年4月19日の新聞各紙の一斉報道によってである。時の大平正芳首相は、2日後の21日に「人がどう見るか、私の気持ちで行くのだから、批判はその人にまかせる」と言い切って参拝し、さらに、その年の10月18日、翌年4月21日と参拝を続けた。

 ≪合祀反対論は「中国原産」≫
 さて、A級合祀が明らかになったことでどのような論議が起こったか。当時の新聞報道のすべてを追跡するのは大変なので、靖国参拝に最も批判的だったと見られる「朝日新聞」にしぼって検証してみると意外な事実が浮かび上がってくる。 
  政界では
永末英一民社党国対委員長と三原朝雄総理府総務長官が「好ましくない」との見解を述べたにとどまり、各界から寄せられた賛否の意見も紙面に登場したのは翌年のものを含めても十指に満たない。何せ「天声人語」で僅(わず)かに触れたものの、社説には一度も取り上げられたことがなかったのを見れば、このことに対する当時の一般の関心がどの程度のものであったか、おおよそ分かるだろう。
 
大平首相はこの年の12月5日に訪中し、トウ小平副首相ら中国首脳と会談したが、靖国参拝への言及は全くなかったし、翌年5月27日に華国鋒首相が来日した時も同様である。振り返ってみれば、大平首相に続いて鈴木善幸首相、中曽根康弘首相が参拝を重ねたのも、このような状況下でのことだった。
 すなわち、“A級戦犯”合祀問題が首相の靖国参拝に反対する新たな論理として拡大・発展したことなどついぞなかったし(参拝反対論は依然として政教分離問題に集中)、中国もこれを理由として参拝反対を唱えることなど一切なかったということである。

 周知のように、それが表舞台に登場するようになったのは、合祀が判明してから6年以上もたった昭和60年8月15日の中曽根首相の参拝に中国が反対する論拠として唐突に取り上げたことが発端である。毒入りギョーザと同じく中国原産の輸入品であった。

 ≪首相の器量はかる物差し≫
 今日、赤紙一枚で戦地に赴いた人と戦時指導者の間には違いがあるとして、彼らの合祀を快く思わない人々がいることは承知している。しかし、これまでの経緯を見る限り、それは必ずしも日本人の間で自然に発生した議論とは言い難く、本人が意識しているか否かはともかく、中国の意向に沿う形でアレンジされた産物だと見られても甘受せざるを得まい。 
  そこで古賀氏や石原氏に問うてみたい。分祀論に対する批判は既に何度も述べたのでここでは繰り返さない。何よりも、A級合祀が判明した時点から、いや、少なくとも中国がこのことを持ち出す前からこうした発言を続けてきたのか、と。一体、言論の主体性はどこにあるのか−これが両氏に対して抱く根本的な疑念である。

 9月14日の「サンデープロジェクト」は再びこの古賀発言を取り上げ、自民党総裁選に出馬した5人の候補者が見解を求められた。石原伸晃、与謝野馨、石破茂の3氏は明確に分祀論に賛同したが、小池百合子、麻生太郎両氏はそうではない。

 とにかく、麻生氏が首相に就任し、来るべき総選挙は小沢一郎氏との一騎打ちとなるが、小沢氏はかねて分祀めいた論を公にしている。靖国問題は首相としての器量をはかる物差しともなるに違いない。

国学院大学教授 大原康男 産経新聞【正論】
2008.10.16  
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